聖 書 ルカ9章51~62節

『イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。』 (ルカ9:62)

説教題 「神様に従う道を歩む」
聖 書 ルカ9章51~62節
説教者 長谷部裕子師

ルカによる福音書では、イエス様は4章19節~9章50節のガリラヤ伝道を終えて、9章51節から新しい単元に入ります。

1. 十字架の道への出発(たびだち)

51節の「さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、…」という書き出しに象徴されるように、ここからは19章44節までがエルサレムへ向かう道です。イエス様はこの時すでに天に昇って行かれる日をご存知でした。しかしその前に十字架の呪いを避けて通ることはできません。イエス様は苦難と十字架を胸に秘めて「御顔をエルサレムに向けて、毅然と進んで行かれた。」(新改訳2017)のです。ですがその御顔にはもはや迷いや恐れがなく、いよいよ十字架、復活、昇天の時が近づいたことを示す強い意志と決断力に満ちて、救い主としての使命感に燃えていました。
またこの時を境にしてエルサレムへの旅に同行する弟子たちにも隠されることなく、十字架予告をはっきりと口にされるようになりました。十字架予告とはイエス様自らが「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。(9:22)と言われることです。さらに「あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」。(44)と告知されました。これらのことからもわかるように、十字架はイエス様に殺意を抱く者たちの策略や陰謀の結果の出来事ではなく、イエス様は初めから神様のご計画に基づいて世に来られた「救い主」であったという事実です。ここでは予告が現実味を帯びて、受難が一層近づいてきたことを予感する緊迫感が感じられます。

2.自分勝手と的外れ

サマリヤ地方はアッスリヤによって来たイスラエルが滅亡した後、ここに外国人が移住させられサマリヤの異教化が進んだことで、捕囚後のユダヤ人は信仰の純粋性を主張して互いに憎しみ会って対立していました。そういうわけでイエス様が旅を続けサマリヤ人の町に入り、エルサレムに行こうとしているのを知ると受け入れようとしませんでした。(53)しかしイエス様はサマリヤ人を蔑むことをしないで、サマリヤの女に伝道したり(ヨハネ4:1~26)良いサマリヤ人のたとえ話(ルカ10:30~35) を語ったりして、ユダヤ人とサマリヤ人を分け隔てしませんでした。
弟子のヤコブとヨハネはこの無礼な行いに怒り、「彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。(54)と申し出ます。これは弟子たちにはエリヤ的な的外れなメシヤ理解が残っていた証拠です。(列王下1:10)イエス様はこれを即座に戒められました。神様の救いのご計画とそれを実行なさるイエス様の大いなる決意とはかけ離れて、サマリヤ人や弟子たちはイエス様を嘆かせました。

3. 私に従ってきなさい

57~62節までは3人の弟子志願者が登場します。最初の人はどこに行くにもイエス様について行くと名乗りをあげます。彼は自分の言った意味を本心からは理解してはいません。イエス様は彼に「本気でわたしについてくるなら安楽な暮らしはありません。主に全く委ねて生きるのです。」と言いました。別の人は「まず父を葬ることを許してください。」と言い、この人も一番の願いや関心事は、主ではなく自分のことでした。父を敬うことは大切ですが、わたしたちは「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33)を信じたい。別の人は「主よ、あなたに従います」と言いながら、「ただその前に家の者に別れを」とすぐに従おうとしないことがわかります。イエス様はこの人には「手をすきにかけて(弟子になると決めて)から、うしろを見る者(自分の願いを優先される)は、神の国にふさわしくないものである」。と言われます。(62)
キリストを愛し主に対する忠誠心をどんなことよりも第一していく気持ちを持つなら、あなたはまことのキリストの弟子になれるでしょう。

【中高生の考えるヒント】

(問1)なんのために、イエス様はエルサレムへ出発されましたか。
(問2)サマリヤの町の人々や弟子たちは、イエス様の旅の目的を知っていた。
(問3)イエス様の弟子になる前に、まず自分の関心事を済ませるべきですか。