金 言 「あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。」(ピリピ4:9)

説教題 「平和の神が共に」
聖 書 ピリピ4:1~9
説教者 矢島志朗勧士

ピリピ人への手紙を読み続けている。3章の最後では、天に国籍を持つ者と
して、救い主イエス・キリストが来ることを待ち望んで生きる生き方が勧められている。それは、「天国という共同体の市民として生きる」「あたかもすでに天国にいる者のような、天国の基準で生きる」ことである。それはまた、キリストの再臨を待ち望みつつ、彼が私たちの体を栄光の体に復活させてくださることを待ち望む生き方である。復活の力が今もうすでに私たちのうちに働いていることを信じる生き方でもある。そこからさらに進んで、具体的な勧めがなされていく。

1.一つ思いに(1-3)

パウロは、ピリピの人たちに愛をこめて、主にあって固く立つことを勧める(1)。
そして「主にあって一つ思いになってほしい」と語る(3)。1章の最後に「キリストの福音にふさわしい生活をしなさい」(1:27)という勧めがあったが、それもまた一致の生活への勧めであった。ユウオデヤ、スントケ、クレメンスと名前を挙げて、彼らが「福音のためにわたしと共に戦ってくれた」ことに言及し、彼らの働きを労いながら、協力し合うことを勧める。パウロの愛情、働き人への労い、一致への強い願いが伝わってくる。それはまさに、神様が私たちに願っておられることである。

2.神の平安が守る(4-7)

主にあっていつも喜んでいること、寛容であることも勧められる(4-5)。6-7節は
多くの人が印象に残る聖句として挙げる、励ましに満ちた言葉である。ここにある「願い」とは、「具体的な願い事」という意味がある。また、「神の平安」(7)について、ある訳にはこのような説明がある。「キリストによる救いを確信した霊魂の落ち着いた状態、またそれゆえに神から来るものを何も恐れず、地上でどのような役割を与えられてもそれに満足している状態、そのような平和」。私たちには、自分の真の願いがわからないことがある。しかし祈りの中で感謝しつつ、かつ正直に心を注ぎ出していく時に、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安によって、心と思いが守られるというのである。なんという慰め、希望であろうか。願いを本当に正直に出すならば、自分の赤裸々な思いや、罪の姿に直面させられることもあるだろう。その時は、むしろキリストの十字架による救いをさらに深く知る恵みの機会となる。そういったことも隠すことなく主の前に出していく時に、主は聞いてくださり、取り扱ってくださり、平安を与えてくださるのである。このことに信頼をして、思い煩うことから解き放たれて祈っていく者でありたい。

3.平和の神が共に(8-9)

8節では8つの「心にとめるべきこと」が語られる。二つ目の「尊ぶべきこと」は「誉
あること」とも訳される。それは、「神の臨在が満ちていること」「神の視点から見て価
値のあること」とも言える。8つの事柄すべてが、まさに神様の目から見て価値のあ
るものである。心にとめるという行為は、よく考えて行動することへとつながっていく。何に心をとめるかによって、思考や行動は大きく左右される。神様に反するもの
に心をとめるならば、そのような行動へとつながっていってしまう。心をどこにとめる
か、思いをどこに向けるかに十分注意をしたい。
9節では、実行するように勧められている事柄がある。「学んだこと、受けたこと」とは、みことばとその解き明し、教え、歴史の中で確認されてきた伝統などが含まれるであろう。「聞いたこと、見たこと」は、より人格的なふれあいで得ることであり、「模範」でもある。言葉だけでなく、交わりの中で得ていくものも大切である。これらを実行する時に「平和の神が共にいます」という約束がある。この平和は、悩みや問題が何もないという状態ではなく「問題があっても、常に和解に向かってゆくことができる」という意味での平和である(1:2)。また常に「完全な勝利への希望」を共にできるという平和でもある。神様を中心とし、人との関係を大切にする中でもたらされていく「平和」である。この平和を与えてくださる神と、共に歩ませていただきたい。

(問1)パウロはユウオデヤやスントケについて、どのような人であると語りますか。(2-3)
(問2)どのようにしたら、神の平安によって守られますか。(4-7)
(問3)わたしたちが心にとめるべきこと、実行すべきことは何でしょうか。(8-9)