金 言 「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタ 11:28/新改訳2017)

説教題 「私を愛して心配なさる神」
聖 書 マタイ11:28~30
説教者 長谷部裕子師

統計を取ったことはありませんが、今読まれた聖句は全国の教会の看板に掲げてあるみことばで一番多いのではないかと、わたしはひそかに考えてしまいます。目まぐるしい現代生活にすっかり疲れてしまい、喘ぎため息をつく日々を送らざるを得ないわたしたちです。わたしたちを疲れさせるのは、自分の問題に加えて、家族・親族関係、職場や学校関係などあげつらえば枚挙に暇がありません。肉体の疲れは栄養を取り休むことである程度は回復します。精神的な疲れを取り去るのにはあまり役立ちません。それならば精神的な疲れが癒されて心を元気に保つためにわたしたちはどうすべきでしょう。

1. イエスのもとに行こう

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。」(28)イエス様は全ての人々にご自身のもとに来るように招かれています。この招きは「すべて」という言葉で始まっており、どの人にも分け隔てなく呼びかけておられます。「苦労をしている人」という動詞の時制は、今、苦労の真っ最中で奮闘しているという意味です。重荷を負っている人とは現在完了受動形なので、自分の意思とは別に「重荷を負わされている人」を指します。
当時の信心深い正統派のユダヤ人にとっては、律法や伝承を守るという責務が重くのしかかっていました。しかし律法学者たちは高慢で「重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。」(マタイ23:4)とされました。このイエス様の招きは現代人が直面しているあらゆる重荷、それは病、経済、人間関係、失業、将来その他日常生活の思い煩いなど、どんな事がらでも、疲れているすべての人に対して、イエス様は自分のもとに来るように招かれています。英語の聖書でも28節は「Come to me」と呼びかけています。すべての問題はイエス様のもとに、それを抱えたままで行くことから始まるのです。

2. イエスに従ってみる

イエス様はご自身の心を「柔和でへりくだっている」と言われました。ここでは進んで自分を低くされた謙遜なイエス様のお姿が思い起こされます。(ピリピ2:6~8)「柔和な人」イエスは、律法学者のように居丈高な者でなく、穏やかでありながら物事に動じない内に秘めた強さを表します。イエス様はご自分のもとに招いた人々に「私に学びなさい」(29)といっています。「学ぶ」というのは「勉強する」ということではありません。これは「弟子になりなさい」という意味です。つまりイエス様に従って行くことです。その結果は「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」(29)とあります。キリストが与えてくださるもの、それは「魂」の「休み(やすらぎ)」です。ひとつの問題が解消しても、生きている限り問題は次々にやってきます。それならば今の悩みを抱えたままでも、魂に安らぎが与えられるならば、くよくよ悩む必要はありません。

3.イエスのくびきを負ってみる

イエス様は招いた人々にイエスのくびきを負うように勧められました。(29)双方がくびきにつながれた馬や牛は好むと好まざるとにかかわらず、歩調を合わせて進みます。同様にイエス様と並んでくびきでつながれていることは、いつも主が共におられるので安心です。一人道に迷って途方に暮れることはもうありません。くびきは自由を束縛するものでもあります。つまりだれとくびきを共にするかで、それは苦痛にもなるし安心感にもつながります。イエス様はわたしをこよなく愛して、いつも心配してくださる方です。そのお方が傍らにいてくださいますなら何と心強いことでしょう。イエス様は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(30)と言われました。「負いやすく」とは、甘い、心地よい、親切、良いの意味がありますから、もともとくびきが与えるイメージとはずいぶんと違います。また「わたしの荷は軽い」とは、イエス様が要求される荷が軽いという意味ではありません。イエス様が共にくびきを背負ってくださるので、軽く心地よいのです。くびきを共にするイエス様にあなたの重荷を預けましょう。イエス様だけがあなたの心を解放してくださいます。イエスのくびきは、わたしたちに愛と恵みをもたらす祝福のしるしなのです。

(問1)あなたが抱えている悩みで、最大のものは何でしょう。
(問2)聖書は疲れた人や重荷を負っている人はまずどうしなさいと言われますか。
(問3)イエスのくびきにはどのような特徴がありますか。