金 言
「主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。」(出エジプト記33:14)

説教題 「主の臨在の約束」
聖 書 出エジプト記33:12~23
説教者 井上義実牧師

 今年初めて船橋に来させていただく。出エジプト記33:14は教団創立の約束の御言であり、臨在信仰の表明である。

Ⅰ.主の臨在を忘れて

 出エジプトのイスラエルの民は紅海を渡り、荒野の道を歩んだ。シナイ山に到着し、モーセは律法を受けるためにシナイ山に登った。神様は山頂で40日間モーセに語られた。ところがふもとの民はモーセがいなくなった、新しい神様が必要だとアロンに詰め寄る。アロンは金の子牛を造って神様とし、民は踊り戯れた。どこに神様が選ばれた民の姿があるのかと思う。神様は怒られ、モーセの憤りを見る。改めて神様は先祖の地を目指せと言われるが、神様は一緒に行かれず「ひとりの使」(2節)を代わりに行かせると言われた。神様を軽んじ、自分勝手なことを行った結果は、神様の臨在を失うという最悪のものであった。

Ⅱ.主の臨在を求めて

 しかしモーセは32:32で自分が滅んでも良いから民を赦してほしいと願った(ローマ9:3でのパウロ参照)。神様が一緒に行かれないとの言葉に対してもモーセは食い下がる。12~13節からモーセは神様の恵みを前面に押し出す。ここからはモーセと神様の恵み問答とも言える。モーセは「神様は恵みを約束された恵み深い御方であるから私たちを見離されることはない」と展開する。神様はついにご自身が一緒に行くと言われた(14節)。モーセは「神様の恵みは神様が一緒におられることに他ならない」と言う(16節)。神様の臨在は恵み、救い、助け、あらゆる良きものの源泉となる。私たちは神様の恵みを求めることにおいてこれほど熱心だろうか。ヤコブのぺニエルの経験を思い起こす(創世記32:22以下)。

Ⅲ.主の臨在の証明

 モーセは神様から約束の言葉をいただいた。神様は真実な御方であり、お言葉だけで十分ではないかと思うが、さらにモーセは栄光を見せてほしいと願う(18節)。強引と思うほどの熱心さであるが神様はお答えになる。私たちはそこまで熱心であるのだろうか。神様の栄光は神様と別にあるのではなく神様ご自身にある。神様の栄光の全てを肉の目で見ることはできない。神様が通り過ぎられる時にモーセは岩の裂け目に入れられた。神様の栄光の後ろ姿を見、御手によって守られた。神様と親しく対話したモーセでそうあるなら私たちは神様の栄光を見られるのか。しかし今、私たちはイエス様によって神様の栄光を見られる(ヨハネ1:14)。イエス様は私たちと共にいるという臨在の約束を語られている(マタイ28:20)。

 モーセは約束の地カナンを目指すために神様に共におられる臨在を求めた。私たちはイエス様が共にいてくださるという約束をいただいている。イエス様を通して栄光を拝することができる。偉大な神の人モーセが必死で神様に食い下がって得た恵みは、私たちにはイエス様を通して既に備えられている。この驚くべき大いなる恵みを確かに自分のものとしよう。
Cf.17世紀のフランスの修道士ブラザー・ローレンス。調理場の奉仕を受け持った。「偉大なことをする必要はありません。神様のために小さなことを私たちはすることができます。焼いているケーキをひっくり返すときも、神様を愛する気持ちで行うことができます。」神様の臨在に絶えず心を向け「完全に神に所有されている状態」を求めたローレンスの敬虔は語られ続けている。

【中高生の考えるヒント】
1.この聖書箇所はどんな場面ですか?
2.臨在は英語ではpresenceです。あなたにとって神様の存在とは?
3.神様が共にいてくださるのはどのような恵みでしょうか?