金 言 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14/新改訳2017)

説教題 「神のひとり子としての栄光」
聖 書 ヨハネ1章14~18節
説教者 長谷部裕子師

12月はどこを見渡してもクリスマスの装いです。デパートや病院、駅の構内やローターリーにまでツリーやイルミネーションがきらびやかに飾られています。その一方で、ある牧師はノン・クリスチャンに「教会でもクリスマスをお祝いするのですか」と真顔で聞いてこられたという話を聞きました。今日のクリスマス礼拝では、クリスマスによって世界にどんなことが起きたかと、そこには神のどんな意図があったのかを、14と18節を中心にお話ししたいと思います。

1.神が人の子となりおうまれになられたとき

最近、翻訳された聖書訳に、新改訳2017版があります。ヨハネ1章14節口語訳の始まりは、「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」です。それに対して新しい訳は「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」と訳されよりわかり易く「人となられた神」を身近に感じます。二つの訳の違いは「肉体」を「人」と言い換えられ、「うちに宿った」は「間に住まわれた」と訳されています。にわかに信じがたいことですが、神は人として生まれイエスと名付けられ、私たちの歴史上で同じ空気を吸いパンを食し、この世の中で30数年生きられたのです。(ルカ1:31)本来永遠に生き時間や場所を超越しておられる神が、肉体を持つことで限界があり制約の中で生きなければならない人間(人の子)になるために生まれました。クリスマスはこの神のひとり子の降誕を記念して祝います。

2.人の子が神の栄光をお受けになるとき

14節後半は、神の栄光について触れています。「わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(14)神のひとり子イエス様が誕生された夜、野原で夜番をしていた羊飼いたちが神の栄光を目撃者でした。夜空を「主の栄光が彼らをめぐり照らし」今宵、ユダヤのベツレヘムに神の子がお生まれになったと、主のみ使いが知らせに来たのです。
栄光と聞くとまず人間が思い浮かべるときは、競い合った末に見事に入賞するとか功労や功績をたたえられる場面を予想します。しかし、救い主として世に生まれたイエス様が、その30年後に十字架を目前に控えてこう言われました。「人の子が栄光を受ける時がきた。よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ12:23、24)イエス様にとって「栄光を受けるとき」とは、人の目には惨たらしい敗北に映る十字架にかかられるときでした。なぜなら、イエス様にとって人の罪の身代わりとして十字架にかかられることが、神の栄光が現れるときであり、世に来られた最大の目的とその完成だからです。神学者A・M・ハンターは「新約聖書神学入門」の中で、「神になった人間によってではなく、人間になった神によって救われる。」と書いています。

3.神の愛が説き明かされるクリスマス

ある方はクリスマスを「神の子が人となって誕生したのは、人が神の子として誕生するためであった。」と言われました。わたしが洗礼を受けたのは、イースターですが、信仰告白はその前年の小さなクリスマス特別集会でした。その夜わたしはイエス・キリストをわたしの罪からの救い主として信じて心にお迎えしました。1994年12月17日(土)の夜でした。その夜、救いを受け入れたわたしは、集会が終わって肌寒い夜更けの暗い街を歩きながらも、なぜだか心はポッと灯がともったように明るく、キリストのもとに帰りこれから新しい人生が始まるんだという、期待と喜びをかみしめていました。
クリスマスは神が人をあわれんで愛するあまりに、十字架の犠牲を惜しまずに人として、わたしたちの世にお生まれになりました。18節には「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」とあります。クリスマス、わたしたちは確かに神のひとり子イエス・キリストによって、見ることのできない神を見て、永遠に変わらない神の愛を知るに至りました。
(問1) わたしたちのこの世界に、どんなことがクリスマスに起こりました。
(問2) イエス様における「神が栄光受けるとき」とは、いつですか。
(問3) 神を目で見ることはできません、神の愛はどうやって知ることができますか