金 言 「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1/新改訳)

説教題 「神に喜ばれる礼拝をささげる」
聖 書 ローマ12章1~2節
説教者 長谷部裕子師

さていよいよ、今日から2020年の聖日礼拝が始まります。一年52週の初めの日にわたしたちは神様に主日礼拝をささげてまいります。ローマ人への手紙の12章からはキリスト者の生活について書かれています。わたしたちの信仰生活の中心に来るのは、何といっても主の日のこの礼拝です。今年第一回目の主日礼拝をささげるにあたって、教会として一人ひとりが、これまで以上に「神に喜ばれる礼拝をささげる」ためには、何が必要でどういう態度で神の御前に立つべきかを、みことばに教えられ、信仰生活の向上と一層の成長を願いたいと思います。

1. 礼拝に臨む姿勢とは

ここでパウロが勧めているのは「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物(「ささげも物」/新改訳2017、「生けるいけにえ」/聖書協会共同訳)としてささげなさい。」と言っています。つまり礼拝とは旧約聖書に書かれてあるように、かつてイスラエルの人々が神の御前に聖別された、きずや汚れのない生ける献げものを奉献したように、わたしたちの身も心も魂も神様にささげなければなりません。礼拝は奉献としての面があります。なぜなら、わたしたちは贖われてすべてが神のものであり、たとえ実感がわかなくても、わたしたちは神に愛されている神の民だからです。 「それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」とあり霊的ということばは、肉体に対して魂と精神に関する事柄につかいますが、けがれがなく、神聖で清らかなさまという意味もあります。ここを「ふさわしい礼拝」とも訳しています。世俗にまみれたわたしたちが、礼拝において相対するとき聖なる神様に似つかわしく、そのきよさとつりあわなくてはなりません。 「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」(レビ 11:45/新改訳2017) 口語訳で「なすべき」は聖書協会共同訳では「理にかなった」(道理に合っている。理屈が通っている)と訳されています。聖なるお方にふさわしくきよさを求めたい。

2.神の民としてわきまえる

「あなたがたは、この世と妥協してはならない。」(2)妥協という言葉には、自分と他人を納得させるためにもっともらしい理屈をつけて渋々、不承不承に世の習いに従ってしまうというニュアンスがあります。ここを新改訳2017は「調子を合わせ」と訳します。自分の都合ですぐに信仰を曲げてしまう人を思い浮かべます。マタイ13:22で茨の中に蒔かれた種のたとえは「みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」とあるようです。聖書協会共同訳の「この世に倣ってはなりません」は世人の真似をしているうちに世に流されてしまう世俗的なクリスチャンです。パウロはⅡテモ 4:10で「デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。」と嘆いています。世に染まらず、信仰を守るために世と一線を画するけじめも必要です。

3. 神に喜ばれる礼拝者になる

「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分ける」(2) わたしたちはいつも何が神のみこころかを問うて信仰生活を歩んでいます。みこころとは、神の最善であり神を喜ばせ、愛において完全を目指すことです。「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。」(エペソ5:10)人間の気持ちを推し量るには、その人の思いに耳を傾けるように、神のみこころを知りたいのなら、神の御思いが綴られたみことばに親しむことです。みことばを聞く、読む、学ぶ、覚える、黙想する。そうして祈りを通して、さらに神と深くつながることです。主日礼拝に臨む姿勢が変わると、あなたが変わり365日どこでも、神をたたえる場が礼拝となるのです。

(問1) あなたが神を礼拝するとき注意すべきことは何ですか。
(問2) 主日礼拝より自分の予定や都合を最優先してしまう時がありませんか。
(問3) あなたがもっと神に喜ばれる礼拝をささげるために、どうしますか。