金 言 「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。」(詩篇23:4)
説教題 「私の牧者である神様」
聖 書 詩編23:1~6
説教者 矢島志朗勧士
この詩篇は「ダビデの歌」である。背景として考えられるのは、ダビデが苦難や敵対者によって受ける苦しみのただ中にあったということである。たとえば、彼は主君サウルに嫉妬されて命を狙われたこともあれば、息子アブサロムの謀反によって命を狙われて逃亡したこともあった。苦しい状況にありながら、喜びの告白をしている詩篇である。どうしてそのような告白ができるのか、学んでいきたい。
1.主はわたしの牧者(1-3)
牧者とは、羊飼いのことである。神様とイスラエルの関係で、主は羊飼いとして民を導かれた(創49:24)。また、イエス・キリストは良い羊飼い(ヨハネ10:11)、大牧者(ヘブル13:20、Ⅰペテロ5:4)と呼ばれる。牧者は羊たちに食物を与え、導き、守る。羊は牧者に信頼をし、従順に従う、この牧者のもとで「わたしには乏しいことがない」と語られる。「緑の牧場」(2)とは、柔らかい草が生えているところであり、羊はこの場所で安心して草を食べることができる。牧者は憩わせてくださり、魂をいきかえらせてくださる方(3)でもある。「み名のために私を正しい道に導かれる」というのは、神のご性質を示して、それにあずからせ、救いに至らせるという意味がある。
私たちはこの神様によって日々、養われて導かれている。羊にとっては草が食物であるが、キリスト者の食物はみことばである。また礼拝、祈り、交わりによっても養われ、これらを通してみことばがより深く根差して、力となっていく(コロサイ3:15-17)。牧者である神様の養いと導きに、日々あずからせていただきたい。
2.わざわいを恐れない(4-5)
「死の陰の谷」(4)は、「the darkest valley=最も暗い谷」とも訳される。死の陰というのは、暗く狭く先が見えない状況をあらわしている。しかしその中でもダビデは「わざわいを恐れません」と告白をしている。その理由は「主が共におられるから」とある。また「むちと杖」とは、牧者が羊を守り統制するための道具であり、そのようにしてくださる牧者のもとにいれることが、慰めであることも語られている。
「わたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け」(5)とは、主の特別な守りがあることをあらわしている。「わたしのこうべに油をそそがれる」とは喜びの象徴で、「わたしの杯はあふれます」とは、いっぱいのもてなしを受けている様子をあらわしている。
今、私たちが置かれている「コロナ禍」は、この先いつまでリスクや制約のある生活をしていかなかればならないか分からない、先が見えず不安という意味では「死の陰の谷」とも言えるかもしれない。コロナ禍以外でも、やらねばならないこと、向き合い続けなければならないことを抱える中で、いつまで続くのだろうか、先が見えない、耐え難いという思いにかられて、まるで「死の影の谷」にいるかのように思うことがあるかもしれない。ダビデのように苦難のただ中でも「わざわいを恐れません」「あなたがわたしと共におられるから」との告白に生きれるかを探られる。神様の助けをいただき、信仰をもってこのような告白に生かせていただきたい。
3.主の宮に住む(6)
「恵みといつくしみ」の「恵み」はヘブル語の「ヘセド」で、契約に基づく愛、忠誠である。神様が「愛する」と言われたら愛する、「恵む」と言われたら恵む、それを忠実に実行してくださるのである。「わたしはとこしえに主の宮に住む」というのは、「私の休息場は主の家である」「私の戻る場は主の家である」とも訳される。主の家に住んでいるという安心感のうちに、日々を生きていくということである。
この詩篇にあるような告白は、何か特別に優れていて、特別なことをする者がたどり着くようなものなのか。そうではなく、本来、キリスト者の生き方というのが、このようであることを思う。牧者に養われて乏しくないことを自覚し、憩い安んじて生きる、安心して食事をする、神の守り、恵みといつくしみの中を生きる者なのである。
みことばに親しみ、礼拝、交わり、祈りを大切にすることは、この生き方に欠かせない要素である。さらに、日々の歩みの中で与えられ続けている主の恵みをふりかえり、気づき、感謝して歩むことも大切にしたい。その繰り返しを通して信仰は強められていく(箴言3:5)。教会での礼拝と交わりは、その気づきと感謝が増し加わる大きな助けの機会でもある。主によって励まされ強められて、共にこの礼拝から遣わされていきたい。
(問1)神様は、私たちに何を与えてくださいますか(1-3)
(問2)危険がある中で、神様は何をしてくださいますか(4-5)
(問3)神様の恵みの中で、私たちはどのように生きることができますか(6)