わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。(Ⅰヨハネ4:10)

説教題 「神の愛が明らかになる聖夜」
聖 書 Ⅰヨハネ4章7~11節
説教者 長谷部裕子師

いよいよ今日はクリスマス礼拝です。クリスマス(Christmas)とはキリスト降誕日とかキリスト降誕祭を表します。意味はキリストのミサやキリストを礼拝するということです。日本ではクリスマスがいつなのかは子どもやお年寄りでも知っていても、残念ながら日本のクリスマスは肝心の主人公不在、キリスト抜きのクリスマスが一般的です。少し前に流行語に「クリぼっち」という言葉がはやりました。クリスマスにデートやパーティなどの予定が何もなくて一人で過ごすこと、ひとりぼっちでクリスマスを過ごすことをクリぼっちと言ったのです。欧米のようにクリスマスには家族が集まって絆を深め合うことがなくても、クリスマスはなぜか人と交わりを求めて食卓を囲んで、愛する人々の喜ぶ顔を思い浮かべてはプレゼントを選び準備します。クリスマスは世界中で愛が満ち溢れる季節です。1年365日の他のどんな日より誰もが愛をひしひしと感じるときかもしれなのかもしれません。

Ⅰ世界が神の愛を見たその夜

ではなぜ人はクリスマスに愛を求めるのでしょう。それは神様ご自身が愛そのものだからです。(8、10)その夜神様は大いなる決断をなさいました。神様はご自身の愛を人々が見える形とするために、クリスマス(キリスト降誕日)に決められたのです。その夜私たちの罪を赦すために天から「ひとり子を世につかわ」(9) されたのです。マリヤとヨセフがほの暗い家畜小屋の飼い葉おけの中に粗末な布に包まれている愛くるしい幼子を見る時、自分たちの眼差しが神様の愛そのものに注がれていたのです。やがてその子は全世界の救いのために、みわざを成し遂げるとどうして信じ得たでしょう。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」(9)御子の誕生によって神様の愛が明らかにされていくのです。

Ⅱ十字架が始まったその夜

新しいいのちが生まれる瞬間は、誰もが感動と喜びに包まれる瞬間です。しかしキリスト降誕日である聖夜は喜ばしい瞬間であると同時に、十字架への時を静かにしかし確実に刻み始めた夜でもありました。この夜誕生したいたいけな嬰児は、33年後には間違いなく「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」(10)カルバリーの丘で十字架につけられると誰が想像し得たでしょう。降誕の馬槽の遥かかなたの道程に、私たちの信仰の目はそびえ立つ三本の十字架を見るのです。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8/新改訳2017)神様の愛はあの十字架に釘つけられたむごたらしいお姿の神の御子によって、わたしたちの目には鮮烈に明らかにされるのでした。

Ⅲ神の愛が人に広がるその夜

 わたしたちはクリスマス―御子の降誕によって「神の愛」を知り、それに続く御子の十字架によって「イエス・キリストの愛」の愛がわかりました。神はクリスマスに「神は愛である」ことを、御子を世に遣わすことで明らかにされました。神の愛を知った者に神は「わたしたちは互に愛し合おうではないか。」(7)と呼びかけます。コロナ・ウィルスが人を通して伝わる以上に、私たちクリスチャンは神の愛を広め福音を伝えなければなりません。
さらに「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」(19~20)クリスマス、圧倒的な神の愛を受け止めたからこそ、人間同士の愛を広めたい。

今日はこれから洗礼式があります。神から愛されていることを十字架と復活を通して信じて救われたお二人が洗礼を受けます。みなさんはそのことの証人です。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」(伝12:1)のみことばのように、救いは彼女たちの祝福であると同時に、彼女たちよって目には見えない神の愛を知る人が一人でも多くこの世界に増えますように祈りましょう。