金 言
「あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで行くにも及ばない。主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたの/しんがりとなられるからだ。」
(イザヤ52:12)

説教題 「神様の恵みによって」
聖 書 イザヤ52:1~12
説教者 井上義実牧師
3月も早、半ばとなり、少しずつ春めいてきた。教会総会を終え、船橋栄光教会の新年度の歩みのために祈っている。コロナ禍の現状も、コロナ後の展開にも私たちは外に向かっての宣教、内に向かってはキリストの体である教会を建て上げる使命を帯びている。神様の知恵と導きをいただいて共に進もう。4月からの教会の御言は、旧約から「まことに、主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようする。そこには楽しみと喜びがあり、感謝と歌声がある。」(イザヤ51:3、新改訳2017)、新約から「こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代って願います。神と和解させていただきなさい。」(Ⅱコリント5:20、新改訳2017)である。先の御言からは、コロナ禍の私たちの痛みからの回復と新生、後の御言からは外に向かって福音の使者として遣わされることを示されている。今朝の聖書箇所は先の御言の箇所イザヤ書51章に続く52章であるが、ここに回復の喜び、宣教の喜びがある。

Ⅰ.神の民の回復がある

 聖書の歴史を見ていくと、神の民に対して神様は時に痛みを与えられるが、必ず回復を備えて下さる。ヨセフの時代から400年を経てイスラエルの民はエジプトで奴隷とされたが、モーセによってイスラエルの民は先祖の地、約束の地へと帰って行く。王国時代を経て北王国イスラエルも、南王国ユダもアッシリヤに滅ぼされ、バビロンへと引かれて行くが再びイスラエルの地に帰ってくるた。9・10節はイザヤの時代にはまだ起こらないバビロン捕囚、その後の解放が語られている。神様はご自分の民を見離すことはなく、見捨てられることは無い。神様は最善を願われ、神様の愛の内に導かれていく。4節にはエジプト、アッシリヤの記述がある。旧約聖書の中で出エジプト、バビロンからの解放は、2つの大きな帰還、回復である。これを私たちに当てはめて考えるならば、今の世界はコロナ禍で苦しんでいるが、神様は回復を与えてくださるとも言えよう。2千年のキリスト教会の歴史においてペスト、コレラ、チフス、天然痘、スペイン風邪 …多くの疫病を乗り越えてきた。私たちの現在の大きな痛みはやがて収束していく。

Ⅱ.宣教の喜びがある

 未だ世界はコロナ禍にあえいでおり、忍耐を続けていかなければならない。現在、教会の働きも大きく制限され、不自由を覚えている。信仰者として多くの重荷や痛みを感じているが、私はさまざまな痛みの中でも、教会が外に向かって自由に御言を語れる機会が少ないことに痛みを覚える。エジプトの地では民族絶滅の危機、バビロンの地でも神の民は抑圧を受けていた。故国イスラエルに、神の都エルサレムに帰ってきた神の民はよきおとずれを伝える(=福音を伝える)。平和を告げ、救いを告げる。神様の愛と恵みは私たちの宣教の力となっていく。神様の働きは前進していく。日本の教会史で全教会的なリバイバルは、キリシタンの弾圧の時代を経て、明治6年キリスト教禁教の高札の撤廃によって宣教が自由になった時が第一回と言える。天皇の神格化、国家主義、敵国の宗教という弾圧を経て、昭和20年の太平洋戦争の終戦、現在の憲法の制定、信教の自由によって戦後すぐに宣教が進んだ。神の民、神の教会の痛みの経験は、やがての自由、解放によってリバイバルの力となっていく。痛みを覚えているコロナ後の世界に、神様がなされる働きに大きな期待を持つ。

Ⅲ.主の臨在がある

 神様による回復の事実、回復の後の宣教、リバイバルを見てきた。私たち自身への神様の約束を最後に見る。12節には「あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで行くにも及ばない。主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたのしんがりとなられるからだ。」とある。この「前に行き」という言葉は軍事用語で、工兵隊と言う言葉の語源である。工兵隊は軍隊が進む時、渡れない川があると仮設の橋を架ける、ジャングルを切り開いたり、障害物を爆破したりする。神様が私たちの人生、歩みに先だって下さり、道を切り開いてくださる。「しんがりとなる」という言葉には、集めるという意味がある。イエス様はやがてご自分を十字架に付けるエルサレムの街に向かって言われた。ルカ13:34「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。」。イエス様はやがてご自分を殺そうとするエルサレムをあわれみ、悔い改め、戻ってくるようにと、母親のめんどりが我が子を呼び集めるような愛と慈しみをもって集めようとされた。イエス様の十字架の愛は、無限の愛、無償の愛である。イエス様が呼び集めてくださったからこそ、私たちは救いに与ることができる。私たちの前に先だって行き、後ろを守られる神様の愛によって私たちは守られている。
 
 新年度を迎えるこの時、コロナ過はまだ先が見通しづらいが、私たちは神様に大いなる期待を持って共に進もう。