金 言
「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をあるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」(エペソ3:18、19)

説教題 「強められ、満たされますように」
聖 書 エペソ3:14~21
説教者 矢島志朗勧士

 未曽有の経験を重ねた2020年度が終わろうとしている。今までにない苦しみや不安にさらされたことも多かった。神に祈ること、神に頼ることがより切実になったと方も少なくないだろう。この1年で初めて知った自分の姿、初めて叫んだ祈りというのも、あるかもしれない。
エペソ人への手紙が開かれてきて、前半が終わろうとしている、神の選び、恵みによる救い、ユダヤ人と異邦人の隔てが取り除かれて、すべてのキリスト者は神の家族とされて共に成長し、神の国をつぐ者とされることが語られてきた。パウロ自身、自分は何のために恵みを与えられたか、何が使命なのかも語られてきた。手紙の前半の最後に、パウロは切なる祈りをささげた。その祈りから学んでいきたい。

1.内なる人が強くされる(14-16)

パウロは「ひざをかがめて」祈った。それは厳粛な祈りである。ユダヤ人の習慣による祈りの姿勢は立ったままであり、ひざまずいてというのは特別な厳粛さや、異例の事態であることを意味した。
「天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあるゆるものの源なる父」とは、新改訳2017では「天と地にあるすべての家族の「家族」という呼び名の元である御父」と訳される。ギリシア語で「家族」という言葉は「父」から発している。キリスト者は父なる神から出た家族であり、すべての父権の原型が神に見られ、他のすべての父権は神に源を発するのである。
エペソの人たちの「内なる人」が強くされるようにとの祈りがささげられる。こう祈るのは、パウロ自身が生涯の中で、強められることを大いに経験したからであろう。宣教を進める中での迫害やたたかい、投獄生活の中で、彼は内なる人が強くされる体験を何度もしたので。それは「御霊により、力をもって」なされたことであった。

2.愛を理解し、満たされる(17-19)

 続いて、エペソのキリスト者たちが神の愛を理解できるようにとの祈りがささげられる。「広さ、長さ、高さ、深さ」という表現は、神の愛の無限性をあらわしている。無限の愛を理解するなど、人間わざではとうてい無理である。それこそ御霊によってのみ、できることなのだ
そしてまた、愛に根ざした生活、共に生きる生活の中で神の愛を理解できるように、とも祈られている。クリスチャンホームで育ったある宣教師が、子供の頃に自分が犯してしまった罪を父親が指摘し、涙ながらに自分を諭す姿を見て「その時、神の愛がわかりました」と語ってくれたことがある。またある友人は、子供の頃に迷惑をかけてしまった大人の人に謝罪に行き、赦されると思わなかったのに赦された時に、感動で涙が止まらなかった経験を話してくれた。どちらも共に生きる中で、交わりの中で神の愛を知らされた経験である。愛の無限性は、キリストが内に住んでくださり、また共に生きる中で理解させていただけるのだろう。
「人知をはるかに越えたキリストの愛を知って」(19)とも祈りがささげられる。ここでいう「人知」とは、「単なる、経験を伴わない知識」である。「神に満ちているもののすべてをもって」とは、別訳では「神の満ちあふれた豊かさにまで」とある。それはまさにキリストご自身であって、キリストと同じくらい愛に満たされるように、との祈りなのである。

3.栄光が世々限りなく(20-21)

 最後は「栄光が世々限りなくあるように」との祈りで終わっている。「教会により」ともあることに注目したい。教会こそまさに神の栄光があらわされる場所なのである。
 私たちは日々、神によって日々、どれほど力づけられているだろうか。どれほど神の愛を理解し、満たされているだろか。この厳しい時代だからこそなおのこと、神の力を、愛を知らされたい。内にキリストがいてくださること、聖霊が働いてくださることを知らされたい。受難週に入り、次週はイースターである、キリストの愛を思い巡らしつつ、神の力に強められて、愛に満たされる日々を過ごしていきたい。

(問1)パウロの一つ目の祈りは何でしょうか(14-16)
(問2)神の愛とは、どのようなものですか(17-19)
(問3)神の栄光を、あなたはどのような時に感じますか(20-21)