金 言
「彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした」
へブル11:16

説教題 「わたしたちの故郷」
聖 書 へブル人への手紙11章13~16節
説教者 井上賛子師

私たちがこの地上の生涯をどう歩むべきかをこの個所より見ていこう。

1.「信仰の人として死にました」13節 「信仰をいだいて死んだ。」

信仰は生きている間のことだけない。この地上を生きる人生の間だけ神様を信じて、それによって平安や慰めを得ることができれば、それでよいというものではない。永遠なる神様を信じているのに、私たちの頭の中はこの世の人生だけになっていないか。

2.「約束のものを手に入れることはありませんでした。」13節

モーセは神の民として生きることを選び、過酷な荒野の40年を過ごすが、約束の地カナンには入れなかった。私たちの生涯で、もしこのようなことがあったらどうだろう。忠実であろうと努力し、目指すものを目前にしながら遂に手にすることが出来ない人生。ピスガに立つモーセに同情を禁じ得ない。しかし、私たちは心の方向を変えなければならない。神様から「ピスガに登れ」と言われ、モーセはその眼を最後まで約束の地へ向け続けていた。「与えられる報いから目を離さなかった。」モーセの最後は何を目指してどこに向かって歩むべきかを私たちに教えてくれる。
 この世の基準は、その人が何をして来たのか、何を実現したのかを問う。「目はかすまず」は「目がよかった」ということない。「信仰の眼は何を見つめていたか」ということである。

3.「地上では旅人であり寄留者であることを告白していました。」13節

この告白が彼らの共通の理解である。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセたちは信仰を全うした。この世は神を信じない不信仰の世、信仰のゆえ戦いがある。私たちはこの世の人と同じ国籍をもったこの世の住人ではない。イエス様は「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではない。」(ヨハネ17:14・16)と言われた。神の国に生きる者である。私たちはこの世と歩調を合わせて生きるのではない。私たちはすべての場所で常に「旅人」として歩むべきである。すべての場所でキリスト者として生き、すべての場所で、天の故郷を見つめるべきである。

4.「もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。」15節

アブラハムは一度も故郷に帰らなかった。それがよく分かるのが息子のイサクの嫁を迎える時。彼はカナンの娘ではなくハランにいる兄弟ナホルの親族から嫁を迎えようとした。その時、自分では行かずに信頼する僕を遣わした。彼は神の約束と召しの言葉にとどまり続けた。私たちは後ろを振り返りやすい。イスラエルの民たちは荒野において困難なことがあるとすぐに、エジプトの方が良かった、今よりましだったと不平を言った。人は信仰に生きられなくなると前を向けなくなる。過去を振り返り、昔の方が良かったと今の歩みを後悔し、ここに導かれているということを信じられなくなる。信仰に生きられなくなると将来を見据えた歩みが出来なくなる。

5.「彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。」

16節「熱望する」という訳。アブラハムは神の言葉を信じて約束の地カナンに導かれたが、約束のものを生涯、手にすることはなかった。私有の財産を何一つ持たなかった。妻の墓一つだけである。約束の地カナンで天幕生活を続ける。9節「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。」アブラハムたちは天の故郷を望んでいたため天幕生活をしたのである。目に見ることはできないが私たちは信仰によって歩む時に確かにそれを仰ぎ見て、そこに向かって歩むことが出来る。

6.「神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。」16節

その言葉通り、神様は旧約聖書の中で、アブラハム、イサク、ヤコブの神と呼ばれている。信仰に生きた人の名前を介して、彼らの信じた神と呼ばれている。私たちの信じている神様は天地万物を造られた方、聖なる方、絶対的な方。しかしその神は神を信じる者と共に歩まれる方である。神様を愛し慕い求める者には喜んで、ご自身を表し係わりをもって下さる神様である。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの神となる。」
 この世では旅人であることを思い、天の故郷を見つめながら歩んでいこう。