金 言
「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」

説教題 「神様と走る「いつもの道」
聖 書 ピリピ人への手紙3章12~14節
説教者 馬越 嶺兄

 キリスト者として「走る」とはどういうことかを考えてみたい。私たちの人生は、一般的にも「走ること」に例えられる。「ゴールを目指して一生懸命に走る姿」と、「自分自身が人生を生きている」姿とが重なる。

1.聖書の中の「走る」こと

 聖書の中でも、繰り返しクリスチャンの歩みが「競争」や「レース」に例えられる。
 「あなた方も賞を得られるように走りなさい」(コリント人への手紙第一9:24)
 「私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようではありませんか。」(ヘブル人への手紙12:1)
 聖書は「走る」ことと、「クリスチャンとして生きていく」ことを重ね、繰り返し語っている。

2.使徒パウロの歩み

 ピリピ書の著者であるパウロは、かつてキリスト教徒を厳しく迫害する者であったが、ダマスコ途上でイエス・キリストと出会い、回心を経験する。それからのパウロは、イエスを人々に伝えていく新しい生き方、「新しい道」へと召し出されていく。パウロによって福音は異邦人世界へと広がって行った。3回の大きな宣教旅行に出かけ、各地で教会を建て上げ、ローマで処刑される時まで、目標を目指し全力で走り抜けた生涯であった。

3.出発点にあった恵み

 私たちの日常、「いつもの道」は、何か特別な出来事があるわけでなく、「普通」の連続のように思えてしまう。しかし、この「いつもの道」のスタート地点には、使徒パウロと同じように、神様の特別な選び、特別な恵みがあった。主ご自身が私たちを罪と滅びに至る道から救い出してくださったのだ。この恵みの出来事を起点とする時に、私たちの「いつもの道」が「特別な道」であることに気がつく。神の目から見れば、私たち一人一人は高価で尊い存在であり、「特別」な道を歩ませていただいているお互いであることに目が開かれていく。

4.「いつもの道」における気づき

①「前」を向かないことによる心の油断
 「いつもの道」で、私たちは度々「失敗」をする。
②主は回復を与えてくださる
 主はつまずいた私を癒し、回復してくださる。「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れて下さった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(ペテロの手紙 第一5:10)
 主が招いてくださった特別な「いつもの道」を、感謝のうちに全力で走り続けるキリスト者でありたい。
 「私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:1−2)