金言
「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」(使徒20:28)

説教題 「神の教会なる私たち」
聖 書 使徒の働き20章28~32節
説教者 栗本高仁師

 私たちが船橋栄光教会に遣わされるに際して語られているのは「遣わされる教会は『神の教会』である」ということです。そこで、今日はエペソ教会の長老たちに語られたパウロの告別説教から、「神の教会」であるとはどういうことなのかを見てまいります。

1)オーナーは神である

 一つ目のことは、教会は神様のものであるということです。つまり、教会のオーナーは神様なのです。それゆえ、パウロはエペソ教会の長老たちに向けて、彼らがリーダーとして立てられている「群れ」は「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」(28節)であると語ります。
 教会は神のものであるということは、当然だと思うかもしれません。ところが、私たちはいつの間にか教会を人間的な組織のように考えてしまうことがないでしょうか。しかし、そうではありません。神様が、私たちを選んでくださり、御子イエスの血潮によって神の子(神のもの)としてくださったのです。そこに私たちの功績は何一つなく、全てが神様の業なのです。それゆえ、教会のオーナーは神様であり、私たち一人ひとりは神の教会の構成員なのです。この船橋栄光教会は、神様が尊いご自身の血をもって買い取ってくださった、神の教会であるという恵みをまず覚えましょう。そして、オーナーである神様を仰ぎましょう。

2)神の深いご計画の内にある

 二つ目のことは、教会は神様の深いご計画の内にあるということです。今年で創立28周年を迎える船橋栄光教会、64周年を迎える荻窪栄光教会。長い歴史の中で、どちらの教会にも素晴らしい神様の導きがあったことを覚えます。しかし、その導きは新約時代からさらに遡って旧約時代から続いているものです。
 なぜそのように言えるのでしょうか。詩篇74:1-2には、このようにあります。「神よ なぜ いつまでも拒み 御怒りをあなたの牧場の羊に燃やされるのですか。 どうか思い起こしてください。 昔あなたが買い取られ ゆずりの民として贖われた あなたの会衆を」。実は、「群れ」や「買い取られた神の教会(会衆)」というのは、イスラエルの民に使われていたイメージなのです。
 つまり、神様は、小さな民イスラエルにかつて託していた、「全世界を祝福する」という使命を、今や神の教会なる私たちに委ねておられるのです。そのような深い神のご計画の内に、私たちが立たされている光栄を覚えさせていただきましょう。

3)御言葉に立ち続ける

 三つ目のことは、教会は御言葉に立ち続ける必要があるということです。ここまで、神様が私たち教会のオーナーであることと、教会が神の深いご計画の内にあることを見ました。それは素晴らしい恵みですが、一方で、神の教会であるがゆえに攻撃を受けることがあります。パウロは、自らが去った後に、外から群れを荒らす「狂暴な狼」が入り込んでくること、また内から「曲がったこと」を語る者が現れると忠告します(29-30節)。これは、神の教会が持つ価値観と、この世が持つ価値観が衝突するために起きます。
 では、そのような攻撃に対処するには、どうすればよいのでしょうか。パウロは「ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」(31節)と言います。パウロが訓戒してきたこととは、彼独自の考えや思想ではなく、「神の恵みのみことば」(32節)です。ですから、パウロは「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます」と語るのです。その御言葉が、私たちを成長させ、私たちに御国を受け継がせます。だからこそ、神の教会なる私たちは、オーナーである神様のことばにいつも立ち続けるように、召されているのです。

 今、私たちも神の教会であるという深い自覚の中で、神様が語られる御言葉に立ち続けるお互いとさせていただきましょう。