金言
「ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。」(エペソ人への手紙3:13)

説教題 「苦難はあなたがたの栄光」
聖 書 エペソ人への手紙3章1~13節
説教者 栗本高仁師

 私たちの人生には、苦難や困難がつきものです。たとえクリスチャンになったとしてもそれらは存在する、と聖書は語ります。

1)パウロの苦難

 パウロ自身が苦難の中にありました。実は、この手紙を書いている時、彼は投獄されていたのです。ですから、「私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています」(1節)と言うのです。比喩的な意味ではなく、まさに文字通り「囚人」だったのです。13節で、「私は苦難にあっている(受けている)」と言っている通りです。

 では、なぜ彼は捕えられたのでしょうか。それはイエス・キリストを宣べ伝えていたゆえです(使徒26:20-21)。しかし、彼は「ローマの囚人」とは言わず、「キリスト・イエスの囚人」と言います。一見、ローマ軍に自由が奪われているように思われますが、彼はどこまでもキリストに属するものであることを忘れないのです。私たちが多くの苦難に遭遇するとき、そこにイエス様はおられないと思ってしまうことがあるかもしれません。しかしそのただ中でも、私たちは「キリスト者」なのです。「キリストのもの」であるがゆえに、イエス様はそこでもともにいてくださいます。

2)苦難は失敗ではない

 私たちは、苦難を失敗と考えてしまうことがあります。しかし、パウロは全くそのようには考えていません。むしろ、「私が…苦難にあっていることで、落胆することのないように」とお願いし、「私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです」(13節)と言います。なぜ、彼はそのように断言できたのでしょうか。

 まずそれは、彼自身の使命と関わらせて、この苦難を理解していたためです。パウロは自身の使命を「神の恵みの務め」(2節)と言います。言い換えると、神様に与えられた恵みを忠実に管理するということです。その恵みとは、以前は隠されていたが、今や聖霊によって明らかにされた「奥義(ミステリー)」(5節)、すなわち、キリストの福音によって、ユダヤ人も異邦人も、同じ神の家族になって、大胆に神に近づけるようになったことです(6,12節)。恵の管理者として、そのことを語り続けたがゆえに、パウロは投獄されたのです。このように、投獄されたことは「失敗」ではなく、使命を果たしている証拠です。だからこそ、パウロの苦難は、異邦人クリスチャンである「あなたがたの栄光」と言い得たのです。

 私たちの苦難も、実は私たちの使命と大きく関わっているのかもしれません。それゆえに、「自らの使命から苦難をとらえ直す」または「苦難から自らの使命を見つめ直す」、そのような道へと私たちは招かれているのではないでしょうか。

3)苦難こそ栄光

 「苦難が栄光である」と言ったもう一つの理由、それは「私(パウロ)がキリストの奥義をどう理解しているか」(3,4節)と大きく関わります。直前のところで「キリストこそ私たちの平和」であり、キリストの十字架が、神と和解させ、さらに人間のあいだに存在する敵意を滅ぼしたことを見ました(2:16)。つまり、神様は「十字架の苦難」という方法をもって、罪と死に対して勝利をとられ、平和をもたらしてくださったのです。まさに、「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です」(1コリント1:18)。そのことのゆえに、パウロは文字通り「苦難は…栄光なのです」と告白するのです。

 そう考えるとき、私たちが直面する苦難も、単なる「苦痛」ではないことがわかります。イエス様の十字架を通して神のご計画が実現したように、私たちの苦難を通して宣教の御業が進んでいくのではないでしょうか。もちろん、その苦難の意味がすぐに理解できないことの方が多いでしょう。しかし、必ず神様が時を備えて、理解させてくださいます。

 

 いかがでしょうか。確かに、私たちの苦難の現実は続きます。しかし、私たち教会はその苦難の意味をとらえなおすことができる、その希望が与えられているのではないでしょうか。