金言
「しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。」(エペソ人への手紙5:13)

説教題 「光の子どもとして歩む」
聖 書 エペソ人への手紙5章1~20節
説教者 栗本高仁師

 アメリカ同時多発テロから21年が経過しました。依然として私たちの生きている世界は「暗闇」と言わざるを得ないかもしれません。2000年前のエペソ教会の社会も同じでしたが、その中でパウロは「光の子どもとして歩みなさい」(9節)と教会を励まします。

1)私たちを取り巻く闇

 では、その「暗闇」とはどのようなものでしょうか。それは日常生活に入り込み、そこには「淫らな行い」「汚れ」「貪り」があります。興味深いことに、そのような行いは「偶像崇拝である」とパウロは言います(5節)。どうして偶像崇拝なのでしょうか。それは、自分を神として「肉の欲のままに生き」(2:3)ているためです。このような行いや、「わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談」(4節)といった言葉は、「恥ずかしいこと」(12節)であるにもかかわらず、なぜか好んでしまうのです。しかし、残念ながらそのような「暗闇のわざ」は「実を結ばない」(11節)どころか、空しさしか残らないのです。
 他でもない私たち自身も「以前は闇」でしたが、そこから「今は、主にあって光となりました」(8節)。私たちが「光の子どもとして歩む」ときに、いまだなお「暗闇の世界」の中にいることを、まず覚えさせていただきましょう。そして、「彼らの仲間になってはいけません」(7節)、「実を結ばない暗闇のわざに加わら」(11節)ないように、との警告をしっかりと聴かせていただきましょう。

2)世の光としての使命

 しかし、「光の子どもとして歩む」とは、避けるという消極的な面だけを言っているのではありません。むしろ「暗闇のわざを明るみに出しなさい」と勧められます(11節)。つまり、私たち教会には、世の光として、その光を人々の前で輝かせる使命があるということです(マタイ5:14,16)。そのため、教会は世から断絶するのではなく、むしろ積極的に「暗闇のただ中で」歩んでいく必要があるのです。それは何か恐ろしいことのように思うかもしれません。しかし、安心してください。「すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされ」るのです(13節)。なぜなら、その光は私たち自身が生み出したものではなく、「わたしは世の光です」と言われたイエス様の光であるためです。「闇はこれに打ち勝たな」いのです(ヨハネ1:5)。
 このようにして、私たちが「世の光」としての使命を果たしていくとき、素晴らしい実が結ばれます。罪の中に死に、眠っている人々が起き上がり、キリストの光に照らされ、彼らも「光となる」のです(14節)。確かに、宣教が教会を通して前進していくという希望を抱きつつ、どうぞ私たち教会も光り輝いていこうではないでしょうか。

3)光り続けるために

 しかし、この使命を果たすためには、私たち自身も「キリストの光で照らされ続ける」必要があります。だからこそ、パウロは「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい」(10節)、「自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい」(15節)と勧めます。つまり、自己点検です。この時、一番大切なことは何でしょうか。それは、「正直さ」です。イエス様はご自身を献げてくださるほどまでに、私たちを愛してくださいました(2節)。そのような愛とあわれみに富まれるイエス様の前だからこそ、私たちは安心して素直に自らの暗闇を出すことができるのです。どうぞ、キリストの光によって照らしていただきましょう。
 そして、そのことがまさに「御霊に満たされる」ということではないでしょうか(18節)。そのとき、私たちの口には、主への賛美と感謝が満ちあふれてくるのです。

 この混沌とした時代の中で、私たち教会は希望の光です。キリストの光で輝き続けてまいりましょう。