金言
「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」(エペソ人への手紙6:10)

説教題 「神の武具によって堅く立つ」
聖 書 エペソ人への手紙6章10~20節
説教者 栗本高仁師

1)神の大能の力によって

 私たちが何かに立ち向かうとき、私たちの努力の如何がその結果を左右する、と考えることはないでしょうか。しかし、ここでパウロは、ずばり「主にあって、その大能の力によって強められなさい」(10節)と言います。私たちは、「自分自身の力」で「強くなる」のではなく、「神の大能の力」によって「強められる」のです。それは、すでに語られたように「キリストの復活」において現された力です(1:19-)。教会は「キリストのからだ」であるがゆえに、かしらなる「主(キリスト)にあって」、その絶大な力が注がれるのです。私たちはそのことを忘れて、教会の一致におけることも、それぞれの成熟においても、様々な人間関係においても、自分の力で戦おうとしていないでしょうか。エペソ人への手紙において、キーワードである「恵み」を私たちはこの最後のところでも思い起こしたいのです。どうぞ、「主(キリスト)にあって」、この神の大能の力に、どこまでもお頼りしていく歩みをさせていただきましょう。

2)私たちの戦うべき相手

 なぜ、そこまで「神の力」が必要なのでしょうか。その理由は、この戦いが「血肉(人間)に対するもの」ではないためです。私たちの戦うべき相手は、「支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するもの」なのです(12節)。それははっきりと目に見えるものではないでしょうが、背後にあるのは「悪魔の策略」です(11節)。だからこそ、私たちは「神の大能の力」によって強められる必要があるのです。
 しかし、そのことも私たちは忘れてしまうことがあります。私たちが本当に戦うべき相手を見誤って、教会の中でも、地域でも、社会でも、家庭でも、目の前にいる「人」との争いになってしまうことがあるのではないでしょうか。その背後には「悪魔の策略」があることをいつも覚えさせていただきたいのです。しかし、神は私たちの味方であり、私たちに力を与えてくださるゆえに恐れる必要はありません。

3)私たちの戦い方

 それでは、私たちは具体的にどのように戦えば良いでしょうか。パウロは、「神の大能の力によって強められるために」、「神の武具を身につけなさい(取りなさい)」と語ります(11,13節)。それはどのようなものでしょうか。パウロは牢獄の中にいたため、ローマ兵の装備を思い起こしつつ、6つの「神の武具」について語ります。それは「真理の帯」「正義の胸当て」「平和の福音の備え」「信仰の盾」「救いのかぶと」「御霊の剣(神のことば)」です。明らかに「人の武器」とは異なります。嘘偽りによって戦うのが当たり前の世界にあって、私たちは「神の真理」を語り、また「神の正義」を正面に示していくのです。また、敵意ではなく「平和の福音」を告げ知らせ、神への「信頼」によって支えられるのです。そして、神が与えてくださる「救い」、「御霊、神のことば」によって立ち向かっていきましょう。しかし、それらの武具を得るために、私たちが何か特別な努力をする必要はありません。すでに神様が私たちに賜物として与えてくださっているものです。どうぞ、この「賜物」を受け取らせていただきましょう。そのとき、私たちはすべての悪に対抗して「堅く立つことができる」のです(11,13節)。

 最後に、この神の大能の力によって強められ続けるために、「祈りなさい」と命じます。まさに、私たちの祈りは、この力をいただく管のようです。それは自分が強くなるためだけではありません。「すべての聖徒のために」、私たちは互いに祈り合うようにと招かれているのです(18節)。その祈りの中で、私たちも「神の大能の力をいただき」「神の武具によって堅く立つ」お互いとさせていただきましょう。