金言
「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(ルカの福音書1:38)

説教題 「神の母マリア、人の子イエス」
聖 書 ルカの福音書1章26~38節
説教者 栗本高仁師

 ある人を「どのように呼ぶか」ということは、「その人が一体何者なのか」ということと大きく関わります。教会は伝統的に、マリアを「神の母マリア(テオトコス)」と呼んできました。また、イエス様はご自分のことを「人の子」と呼んでおられました。それは、私たちにとって何を意味するでしょうか。

1)神の母マリアーまことの神なるイエス

 イエス様の母として、神がお選びになったのは、ナザレという町にいた一人の「処女マリア」でした(26-27節)。しかし彼女は「いと高き方の子(=メシア)の母」として選ばれたことに戸惑います(28-33節)。なぜなら彼女は「まだ男の人を知らなかった」ためです(34節)。しかし、御使いが彼女に答えるように、イエス様は「聖霊によって(人の父親の介在なしに)」生まなければなりませんでした(35節)。それはイエス様が「まことの神」であるためです。それが、マリアを「神の母」と呼ぶ理由です。実は、私たちが使徒信条で「主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生まれ」と言っているのは、「イエスがまことの神です」という告白に他ならないのです。
 私たちにとって、イエス様が「まことの神」であることは非常に重要です。もしイエス様が「ほとんど神」であるとか、「神のような方」であるなら、私たちの救いはとても心もとないものとなってしまうためです。まことの神であり、全く「罪を知らない方」であるからこそ、完全に私たちの罪を負うことができるのです(2コリント5:21)。「まことの神」が来られたゆえに、私たちの救いは全く揺るがないのです。

2)人の子イエスーまことの人なるイエス

 しかし、もう一つ私たちが覚えるべき大切なことは、「まことの神」なるイエス様は同時に「まことの人」であるということです。イエス様の誕生に関して多くの驚くべきことがあったことは事実ですが、一人の母から生まれてきたという意味で、私たちと同じように「人」となられたのです。それでは、なぜ救い主イエス様は「まことの人」となる必要があったのでしょうか。なぜ、無限のお方が、有限の存在にならなければならなかったのでしょうか。「まことの神」として特別な方法でこの世に来られていれば、おそらくヨセフもマリアも困惑することはなかったでしょう。しかし、どうしてもイエス様は「人の子」として歩まなければならなかったのです。それは、「私たちの弱さに同情するため」であり、罪以外の「すべての点において、私たちと同じように試みにあわれ」るためでした(ヘブル4:15)。このような神は、世界中探してもどこにもおられません。「まことの神」である方が、「まことの人」となってくださったからこそ、私たちは安心してあらゆることをこの方に打ち明けることができるのです。これが、クリスマスに与えられた私たちの希望です。

3)この身になりますように

 マリアは、御使いの「神にとって不可能なことは何もありません」(37節)というお言葉に応答します。非常に恐れ惑う突然の出来事でしたが、「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」(38節)と、「神の母」となることを受け入れるのです。このマリアの応答なしには、救い主の誕生はあり得ませんでした。もちろん、そうでなければ他の方法を考えられたでしょうが。神様は、いつも私たちの意思を無視して、強制的にことをなされる方ではありません。むしろ、私たち人間の自由な応答を待ってくださいます。マリアは「この身になりますように」と受身的なように見えますが、非常に能動的に応答したのです。・しかし、それはマリアだけではありません。何よりも、神の子なるイエス様ご自身が、神としてのあり方を捨てられないとは考えずに、人としての姿をとることによって、父なる神様に対する従順を示されました。実は、イエス様こそが、最大の「この身になりますように」と告白した方なのです。私たちは、このイエス様の従順のゆえに、またマリアの従順ゆえに救われたお互いです。私たちはどのように応答していくでしょうか。