金言
「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。」(出エジプト記2:23)

説教題 「私たちではなく、神のタイミングで」
聖 書 出エジプト記2章11~25節
説教者 栗本高仁師

 「すべてのことには定まった時があり、天の下のすべての営みに時がある」(伝道者3:1)とあるように、すべてには「神の時」があります。しかし、その時を見極めることができないのが私たち人間です。後に出エジプトを導くリーダーとなったモーセも、その例外ではありませんでした。

1)モーセの挫折

 エジプトの王室で育てられ大人になったモーセですが、彼は同時にヘブル人としてのアイデンティティも持っていました。それゆえ、彼は「同胞たちのところへ出ていきます」。そこで彼らの苦役、すなわち、エジプト人から打たれている光景を見ます(11節)。モーセの母やファラオの娘が、モーセを「見て」(3節、6節)、彼を救い出しましたが、今度はモーセが「見て」、同胞を救い出そうとするのです。しかし、彼はこのエジプト人がヘブル人にしていたことと同じ行動(「打つ」)を取ってしまいます(12節)。これが彼の正義であり、当然それは同胞に喜ばれるものであると思っていました。しかし、皮肉にも同胞たちには受け入れられなかったのです。翌日、彼が今度は同胞のヘブル人同士の仲介をした時のことです。何と同胞の一人が「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか」(14節)と言うのです。それだけでなく、何とエジプト人を打ち殺したことが、すでに多くの同胞に知られており(14節)、さらにファラオにも明らかになってしまうのです(15節)。
 「正しいことをしているのに上手くいかない」、私たちもそのような挫折を味わうことがあるのではないでしょうか。

2)思いもよらないところで・・・

 ファラオに殺されそうになったモーセでしたが、何とかミディアンの地へと逃れます(15節)。しかし、何とその逃亡先で予想もしていなかったことが起こるのです。彼が井戸の傍に座っていると、「羊飼いの男たち」が、先にいた「7人の祭司の娘たち」に対して行った不正義を目の当たりにします(16-17節)。挫折を味わったモーセですが、弱い立場の彼女たちを助けて、ここでも彼は正義を貫くのです(17節)。しかし、今回はどうでしょうか。彼女たちが帰った時、事情を聞いた祭司である父は、モーセを招き、食事を振る舞います。思いもよらないところで、彼の正義が受け入れられるのです。それゆえ、彼は寄留者としてその地で生きていくことを決め、妻と子どもが与えられます(21-22節)。
 私たちの人生は、確かに上手くいかない現実がたくさんありますが、実はこのように思いがけない経験も満ちているのではないでしょうか。

3)神が動き出す

 紆余曲折を経て、ついに神様が動き始めます。それは、モーセがミディアンの地に住み始めて何年もたち、エジプトの王が死んだタイミングでした(23節)。ここで、イスラエルの子らの「うめき」と「叫び」が神に届くのです。神様はその耳で彼らの嘆きを聞き、その目で彼らを見て、そしてみこころに留めてくださいました(24-25節)。そして、ここから出エジプトにおける神の直接的なご介入が始まっていきます。
 モーセも神様と同様にイスラエルの苦役を「見て」いました。しかし、モーセは上手くいかなかったのです。それは、もちろん彼のやり方に問題があったのも一つの理由ですが、最大の理由は「モーセのタイミング」で「モーセだけ」で、正義を行なってしまったためです。つまり、「神のタイミング」ではなかったのです。モーセが行動したのは40歳の時で(11節;使徒7:23)、神が動き出したのは(モーセが)80歳の時でした(29節;使徒7:30)。人間的に見れば、40歳の時の方がより良いと思いますが、「神の時」はそうではなかったのです。逆に言えば、神が聞き、見て、こころに留めるとき、私たちが考えるような不都合は、全く問題にならないのです。
 私たちも、自分のタイミングで行動してしまうことがあるでしょう。しかし、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3:11)のです。ですから、私たちも「神のタイミング」を待たせていただきましょう。