金言
「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」(出エジプト記4:22)

説教題 「何と不思議な神」
聖 書 出エジプト記4章18~31節
説教者 栗本高仁師

 私たちが信仰生活を送る中で、「神様は実に不思議な方だ」と体験することがあります。いよいよモーセが主の召命に答えて、エジプトへと向かう途上において、私たちはその不思議な神の姿を見ることができます。

1)不思議なわざを行う神

 モーセがしゅうとのイテロにエジプトに帰る許可をもらった後、主もエジプトに帰ることを再び命じます(18-19節)。そして、主はモーセに何をするべきなのかを告げます。それは、モーセの手に授けた「すべての不思議」をファラオの前で行うということでした(21節)。確かに、杖が蛇になり、モーセの手がツァラアトに冒され、ナイル川の水が血になる、というとても不思議な「しるし」を彼に示しました。しかし、主がこの直後に言ったことは、「わたしが彼の心を頑なにするので、彼は民を去らせない」(21節)ということでした。主がモーセとともにいるなら、ファラオの心を柔らかくして、簡単に去らせてくれたらいいと私たちは考えます。しかし、実に不思議なことですが、主はそうはされません。ここには、神の意図があります。それは、「ご自身が世界を治める王であることを知らせる」ためです。ファラオが心を頑なにすればするほど、より大きな「不思議」をもって、ご自身の偉大さを明らかにされていくのです。私たちの信じている神は、普通の力ではなく、圧倒的な力をもっておられ、その「不思議な神」が今も私たちとともに働いてくださるのです。

2)「あなたはわたしの子」と語る神

 主は続けてモーセに語るべき「ことば」を与えます。その内容は、まさに「不思議」です。何とここで主は「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」と言います(22節)。今までは「わたしの民」としか呼ばれていなかったイスラエルのことを、「わたしの子」と神様は呼ぶのです。創造主と被造物、そこには決して超えることのできない壁があります。しかし、何と私たちの神は、私たちのことを「愛するわが子」として見てくださるのです。それゆえに、主は「わが子」がこのまま奴隷状態にされ続けるなら(ある意味で死の状態)、ファラオに対して厳しいさばきを下すと仰られます(23節)。神様は「愛するわが子」のためであるなら、ここまでしてくださるお方です。そのことの極みが、まさに「御子イエス・キリストの犠牲(十字架)」なのです。死をもたらす罪の奴隷状態から、私たちを解放するために、神様はひとり子をささげてくださいました(1ヨハネ4:10)。私たちはそのキリストにあって「神の子ども」なのです(ガラテヤ3:26)。ここまでしてくださる不思議な神が、主以外におられるでしょうか。

3)神の子としてととのえる神

 モーセがエジプトに帰る途中、さらに不思議なことが起こります。何と主は、モーセに再び出会い、今度は彼を殺そうとするのです(24節)。たった今「エジプトに帰りなさい」と彼を遣わしたばかりであるにもかかわらずです。そのとき、彼を助けたのは妻のツィッポラでした。息子の包皮を切り取って(=「割礼」を施して)、その血を彼の両足につけたとき、主はモーセを放されます(25-26節)。ここでわかることは、モーセが主の働きをするために「割礼」がなくてはならなかったということです。イスラエルにとって神の民(=わが子)であることの「しるし」、それが「割礼」です。つまり、彼が神の子となるために、ととのえられる必要があったのです。「神が私たちとともにいる」ということは、大変心強いことであると同時に、非常に厳粛なことです。それゆえ、私たちも神の子として相応しい者とさせていただきたいのです。
 こうして、ととのえられたモーセがアロンと合流し、ついにエジプトでイスラエルの子らと出会います(30節)。そこで彼は不思議な神の御業を見ます。それは、主に与えられた「ことば」と「しるし」によって、簡単に「民が信じる」というわざです(30-31節)。神は約束通りに事を成してくださるのです。

 私たちの神は、これほどまでに「不思議な神」です。この神が、力強いわざをなし、「あなたはわたしの子」と語りかけ、私たちを神の子としてととのえてくださいます。私たちは、この神をどのようなお方として見ているでしょうか。