金言
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)

説教題 「十字架での叫び」
聖 書 マルコの福音書15章33~39節
説教者 栗本高仁師

 受難週を迎えました。「キリスト教において、最も重要なことは何か」と問われるならば、迷うことなく「十字架」と「復活」と答えることができます。今週は、この十字架を深く覚えたいと思います。

1)十字架の七言の中で、際立つことば

 イエス様は十字架上で7つの言葉を発したことが、聖書には記録されています。いずれも味わい深く、大切な言葉ですが、それぞれの言葉に対する印象は異なります。
 第一言の「父よ、彼らをお赦しください」からはあわれみ深さを覚え、第二言の「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」からは救いの希望が与えられ、第三言の「ご覧なさい。これは〈あなたの子/あなたの母〉です」からは慰めを受け、第六言の「完了した」からは救いの確かさをいただき、第七言の「私の霊をあなたの御手に委ねます」からはイエス様の信頼を見ることができます。
 驚くべきことですが、イエス様が十字架上で言われたことの多くは「苦しみ」の言葉ではありませんでした。しかし、第四言「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(34節)というこの一言に、イエス様が受けられた「苦しみ」の凄まじさが表現されています。

2)罪なき方が受けた神のさばき

 イエス様は、十字架上であらゆる苦しみを受けられました。しかし、その苦しみの極みは、この第四言にあるように「神に見捨てられる」ということでした。子であるイエス様と、父なる神様の間には、いつも完全な交わりがありました。しかし、その交わりが、一時的であるにせよ断たれたのです。私たちが経験する別れを考えても、その人との関係が親しければ親しいほど、大きな悲しみとなります。そうであるならば、イエス様の苦しみは想像を絶するものであったのではないでしょうか。
 しかし、イエス様は「見捨てられる」ようなことは何一つしていません。また、そのことを父なる神様もご存知でありました。それでは、なぜイエス様は断絶を経験しなければならなかったのでしょうか。十字架に架けられた時刻は午前9時でしたが(25節)、その三時間後(=十二時)、何と闇が全地をおおいます(33節)。ここに、神のさばきが現されています(アモス8:9)。そのさばきは、本来イスラエルの犯した罪に対して、もっと広くいうならば人類の罪に対してなされるものでした。ところが、その罪のさばきを受けられたのは、何と唯一「罪を知らない方」だったのです。しかし、この十字架での叫びは、単なる絶望の叫びではなく、信仰の叫びでもありました(詩篇22:21b-)。神に信頼していたからこそ、このさばきを全て受けとめることができたのです(37節)。
 そして、このイエスの死が私たちに救いをもたらしたのです(38節)。まさに、それは「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義(=神の前に正しいもの)となるためです」(Ⅱコリント5:21)の成就なのです。

3)この叫びをどのように聞くのか

 この叫びを聞いた周囲の人々はどのような反応を示したでしょうか。ある人たちは「ほら、エリヤを呼んでいる」「エリヤが降ろしに来るか見てみよう」(35-36節)と、なおイエス様をからかうのです。しかし、イエス様が「息を引き取られた」後、真っ正面でイエス様をずっと見ていたある人がひとこと言います。「この方は本当に神の子であった」(39節)と。その信仰を告白したのは、ユダヤ人ではなく、何と異邦人であるローマの百人隊長でした。彼は、これまで幾人もの犯罪人を見てきたことでしょう。しかし、彼は十字架のイエス様を見て、「この方は本物だ」と信じることができたのです。十字架のイエス様をきちんと見るとき、そこに信仰が生み出されるのです。
 私たちは、この十字架にかけられたイエス様をどのように見ているでしょうか。この十字架での叫びをどのように聞いているでしょうか。「ほら、エリヤを呼んでいる」と言った人たちのようになのか、「この方は本当に神の子であった」と言った百人隊長のようになのか。今もう一度、この受難週を過ごす中にあって、一人ひとりが応答させていただきましょう。