金言
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Iヨハネ4:9-10)
説教題 「ひとり子を惜しまない愛」
聖 書 創世記22章1~19節
説教者 栗本高仁師
船橋栄光教会創立30周年を迎えるにあたり、主が与えてくださったビジョンを具体化していきます。そこで、立てられた3つのビジョンについて、御言葉から考えていきたいと思います。
今日は一つ目のビジョンの前半部「イエス・キリストの十字架の愛を知る」(神の愛)について、見ていきましょう。
1)「神の愛」とは何か?
そもそも愛とは何でしょうか。あなたの愛する方を思い浮かべて、その方をどのように愛していますか、と尋ねられたらどのように答えるでしょうか。おそらく、様々な答えが返ってくると思います。そのため、愛を一つの定義で表すことは難しいでしょう。しかし、おそらく共通して認識できることもあります。その一つは、「私はあなたのことを愛している」といくら言葉で伝えたとしても(それは大切なことです!)、そこに行動が伴っていなければ、決してその愛は相手に伝わらない、ということです。つまり、「愛とは〇〇」と定義することは難しいですが、愛には具体的な行動が伴うということです。
それでは「神の愛」とは何でしょうか。「神は愛です」(Iヨハネ4:16)とあるように、神は私たちを愛しておられます。それでは、私たちはその「神の愛」を具体的にどのように知ることができるのでしょうか。実は、アブラハムとイサクの物語において、その神の愛が表されています。
2)理不尽な要求をされる神?!
しかし、この物語を見るときに「一体どこに神の愛が表されているのか?」と疑問に思うかもしれません。なぜなら、アブラハムに試練を与えて、彼の愛する息子イサクを献げさせようとしたのは、その「愛なる神ご自身」であったためです(1-2節)。もちろん、最終的には止めさせましたが(11-12節)。しかし、アブラハムは演技ではなく、本当に息子イサクを殺そうとしていました。
また、このイサクは、老齢のアブラハムとサラの間から生まれた「唯一の子(=ひとり子)」であり(2節)、さらに「約束の子」でもありました(創世記17:20,21:1-3)。この「かけがえのない」イサクを献げるように、神はアブラハムに命じたのです。愛なる神様が、いくら試練であったとはいえ、なぜそのような理不尽な要求をされるのかと、私たちは不思議に思ってしまいます。
3)「ひとり子」を献げた神
確かに、これを人間アブラハムの物語として見るならば、神の愛は全く見えてきません。しかし、これは単なるアブラハムの物語ではなく、実は神ご自身の物語です。なぜそのように言えるのでしょうか。
その証拠は神ご自身の語りの中に出てきます。神はアブラハムに対して「あなたの子、あなたが愛しているひとり子、イサク」(2節)と言っており、この「ひとり子」という表現は繰り返されています(12,16節)。そして、新約聖書の中にも「ひとり子」と呼ばれる方が登場します。それは「神のひとり子なるイエス・キリスト」です。つまり、アブラハムが愛するひとり子イサクを献げるというのは、神が愛するひとり子イエスを十字架に献げるということを指し示していたのです(ヨハネ3:16, Iヨハネ4:9,10)。先ほどイサクは「かけがえのない」存在であったことを見ましたが、まさに神にとって、御子イエスは「唯一無二」の存在でした。
このように見るときに、先ほどとは全く異なる見え方になります。神は理不尽な要求をした方ではなく、むしろ唯一その理不尽を引き受けてくださった方なのです。なぜなら、最終的にはイサクは献げられずに、神が備えた一匹の雄羊が「代わりに」献げられたためです(13節)。神の備えたイエス(雄羊)が、「私たちの罪のために、宥めのささげ物」として、私たちの「代わりに」献げられたのです。「ここに愛があるのです」(1ヨハネ4:10)。
「神の愛とは何か」と問いましたが、それは「神の献身」です。ビジョンに掲げられた「イエス・キリストの十字架の愛を知る」とは、「ひとり子を惜しまずに献げてくださった、神の献身を知る」ということなのです。私たちは、この神の愛を本当に知っているでしょうか。