
金言
「その日、あなたは自分の息子に告げなさい。『このことは、私がエジプトから出て来たときに、主が私にしてくださったことによるのだ。」(出エジプト13:8)
説教題 「継承されていくもの」
聖 書 出エジプト記13章1~16節
説教者 栗本高仁師
夏といえば、各地でお祭りがあります。コロナも五類に移行したためか各地で今年はコロナ以前の形での開催となっているようです。イスラエルの民にとっての最大のお祭りは春に行われる「過越の祭り」とそれに続く「種なしパンの祭り」です。
1)「初子を献げる祭儀」
この二つの祭りは、出エジプトと大きく関連するものです。それらに加えて、主はもう一つ祭儀を定めます。それが、「最初に胎を開く長子」を聖別する(2節)、すなわち「いけにえとして主に献げる」ということでした(12,15節)。ただし、文字通り献げられるのは「動物(ろばを除く)」だけです(12-13節)。人は、何か別のもので「贖わなければな」りません(13,15節)。贖われることで、実際に聖別されたものと見なすことができるのです。
この儀式が、出エジプトと関連することを明らかにするために、あえて「種なしパンの祭り」のことが挿入されているのです(3-10節)。
2)「主のもの」であることを覚える
それでは、なぜこの儀式が出エジプトと関連するのでしょうか。それは第十の災いで「主はエジプトの地の長子をみな、人の長子から家畜の初子に至るまで殺された」ためです(15節)。それゆえ、イスラエルの民の長子も同じようにするように求められたのです。私たちは疑問に思うのではないでしょうか。「なぜそのような残虐なことをする必要があるのか」と。しかし、これは単なる「殺し」ではなく、「主のものとして献げる」ことを意味します。大切なポイントは、「主のものとして」ということです。このように考えると、第十の災いは単なる悪に対する「さばき」ではないことがわかります。エジプトのすべての長子が打たれたことは、「エジプトを治めているのが主であり、エジプトも『主のもの』であること」を示しているのです。だからこそ、エジプトの奴隷から解放され、文字通り「主のもの」とされたイスラエルも、長子を献げていくのです。このことを通して、自分たちは「誰に属しているのか」を確認し続けるのです。
私たちはどうでしょうか。イエス様を信じる信仰によって、「神の子ども」とされたのです(ガラテヤ3:26)。キリストの十字架を仰ぐたびに、私たちは「主のもの」であることを覚えさせていただきましょう。
3)自分の経験として語り継ぐ
ここまで「過越の祭り」「種なしパンの祭り」「初子を献げる儀式」が書かれていました。それは、出エジプトという主の救いを思い起こすためでした。しかし、もう一つ大切な目的があります。それが、子どもたちに「語り継いでいく」ということです(12:26−27, 8, 14節)。
もちろん、「主が力強い御手によって、私たちを…エジプトから導き出された」(14節)とあるように、かつて「主がなしてくださったこと」を伝えます。しかし、ここで非常に興味深いことがあります。それは、かつてなされたことを、語り手は自分の経験として語っていることです(8節)。つまり、出エジプトのストーリーが繰り返し語られることによって、次世代も出エジプトを自らの原点とするのです。
これは神の神秘ですが、私たちも経験できることです。イエスの十字架の御業は、紛れもなく2000年前の出来事です。しかし、私たちがイエスの十字架のストーリーを繰り返し聞き、そこに聖霊が働く時、もはやそれは「かつての、あそこにいる人たち」のための救いではなく、「今、ここにいる私」のための救いとなるのです。
そして、ここに、信仰継承の鍵があります。私たちは、2000年前のイエスの十字架を語ると同時に、それが「私のための救いである」こと語り継いでいくように招かれているのではないでしょうか。