説教題 「危機に生きる信仰」
聖書 ペテロの手紙第一 第2章1~3節
説教者 田上篤志師
私たちが慕い求めるべき「純粋な、霊の乳」とは神の言葉のことです。第1章には、こう記されています。
「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。『人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、神のことばは永遠に立つ」(23~25節)
このような神の言葉を慕い求めることの意義を二つの面から受けとめたいと思います。
1)教会共同体の健やかさのために
ペテロの手紙は、教会に生きるクリスチャンに向けて書かれたものです。その中で、ペテロは教会が真に教会であるために「きよい心で互いに熱く愛し合いなさい」(1:22)と勧めています。ところが、それを妨げてしまうものがあります。それが「すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口」です。それを放置していては、教会共同体が病んでしまいます。そうならないためにも乳飲み子のように神の言葉という乳を慕い求めることが教会共同体にとって必須の実践となります。
2)危機に生きる信仰
「純粋な、霊の乳」としての神の言葉を慕い求めることは「それによって成長し、救いを得るため」でもあります。言うまでもないことですが、赤ん坊が成長するために乳が必要です。クリスチャンもその信仰生活の成長のためには、神の言葉が必要であるということはよくわかることでしょう。それに比べると「救いを得るために」ということについては、おやっと思うかもしれません。キリストによる福音を受け入れて洗礼を受け、教会員となっている者にとって、救いは既成の事実だと信じているからです。ペテロも教会に向けて「あなたがたは……信仰の結果であるたましいの救いを得ている」(1:8~9)、「贖い出された」(1:18)と言っています。
その救いではまだ足りないのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。神はキリストの血によって私たちを贖ってくださいました。この救いは、既に私たちに与えられている、神さまが実現して下さっている事実です。そこに、足りないものなどありません。ただし、ひとつ私たちの側の課題があります。それは、私たちが具体的な危機の中に置かれたとき、神さまから与えられている救いに立って生きることができるかどうか、ということです。
人生の旅路には、突然の危機が襲ってくることがあります。地震や戦争、病気や事故などにより生命の危険に晒されるような危機に遭遇したとき、クリスチャンでありましても神の言葉を慕い求め、それによって成長している人と、そうでない人とでは、危機の受けとめ方に違いが露になります。危機が襲ってきたとき、そこでこそ、神によって贖われているという事実を受けとめて、その危機の只中で希望をもって生きる。そして、神の祝福をもって周りの人たちをも慰め、励ますというアブラハムからはじまった祝福の担い手としての務めに生きる。それが、ここでいう「救いを得る」ということです。その救いを得るために、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な霊の乳を慕い求める」ことは、日々の生活実践となるのです。