金言
「どうか 私の口から出る進んで献げるものを 受け入れてください。主よ。あなたのさばきを私に教えてください。」 (詩篇119:108)
説教題 「私の献げ物」
聖 書 詩篇119:105~108
説教者 井上義実牧師
本日は船橋栄光教会に来させていただいた。台湾からの素晴らしい音楽ゲストの方々と礼拝をささげ、聖餐も共に与ることができ感謝。私たち信仰者にとって普段のこととして、意識しないことかも知れないが、賛美について108節から見ていこう。
1)進んでする献げもの
「進んで献げるもの」この言葉は口語訳聖書では「自発の供え物」と訳された。律法の献げものの規定に繰り返し出てくる。律法にはこの時にはこうしなさいと決められている、強いられている献げものが記されている。私たちの神様に対しての感謝、喜び、愛がより直接的に表されるのは自分から進んで献げる献げものである。旧約聖書では動物の犠牲、穀物であったが、新約聖書以降では主に献金の形になっていった。
2)私の口から出る献げもの
ここでは「私の口から出る進んで献げるもの」とある。この献げものは、動物とか献金ではなく言葉である。神様に献げられる言葉は祈りと賛美である。神様に、動物や献金を献げるには持ち合わせがなければ献げられない。しかし、祈りと賛美は何時でも神様に献げることができる。年令や様々な状況も関係なく献げられる。マタイ21:16は口語訳聖書で「幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた」とある。皆様も祈りと賛美を普段からささげられているが、もっと積極的に神様に祈りと賛美を献げよう。へブル13:15には「それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。」とある。神様の愛による救いの喜び、神様に生かされている感謝、神様に守られ導かれていることを深く受け止め、心からの賛美を献げるものでありたい。
3)どんな時でも献げる献げもの
旧約聖書、新約聖書にはさまざまな賛美の場面が出てくる。使徒の働き16章、パウロとシラスが第二回伝道旅行で訪ねたピリピでの働きを取り上げる。ピリピで、パウロは占いの霊につかれた若い女奴隷を癒したが、その主人はこのことを怒った。パウロとシラスは捕らえられ、鞭打たれ牢屋に投げ込まれてしまう。パウロたちがこのような目に会ったのは良い事をしたことの結果であった。普通ならば理不尽さに憤り、鞭打ちの痛みで震えていただろうが、パウロとシラスは神様に祈り、賛美を真夜中まで続けていた。荒くれの囚人たちも聞き入っていたとある。神様はパウロとシラスに応えてくださって、大地震が起こり、また囚人が誰も逃げなかったことから看守は神様を知って、イエス様を信じた。ここで教えられるのは、苦難の時、どんな時にも祈りと賛美をささげることである。神様はその献げものを喜んで受け取ってくださり、神様の大いなる業を起こしてくださる。
私たちが神様に祈り、賛美をささげることは素晴らしいことである。私たちの唇を神様の献げもののために用いよう。