金言
「すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。」(出エジプト32:14)
説教題 「思い直される神」
聖 書 出エジプト記32章1~15節
説教者 栗本高仁師
日本の裁判制度は「三審制」で3回裁判を受けられるそうです。その中で判決が覆されることがありますが、神様は一度決められたことは、決して変えないお方でしょうか。
1)不安のゆえに…
モーセが40日40夜山の上で幕屋の作り方を教えられていた時、山の下で民はどうしていたでしょうか。彼らは「モーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て」不安になります(1節)。そして、アロンに「われわれをエジプトの地から導き上ったモーセ」の代わりに、「われわれに先立っていく神々を造ってほしい」と訴えます(1節)。
これは単純に偶像を造って欲しいという話ではありません。彼らは「モーセを通して」目に見えない神を見ていました。そのモーセがいなくなったために、同じように「目に見える存在」を求めたのです。つまり、彼らは他の神々ではなく、自らを導いてきた神を意識しています。
たとえそうであったとしても、「偶像(形)を造ること」は十戒違反でした(20:4)。この十戒に背く行為をアロンは許し、彼らの金の耳輪で、金の子牛を作り、「これが、…あなたの神々だ」と言って、「主への祭り」を始めてしまいます。
私たちも困難を覚える時に、すぐに自分たちが扱いやすい神様を造りあげてしまうことがあるのではないでしょうか。しかし、それは偶像崇拝であり、神様を空しい存在へとおとしめてしまい、また自分たちをも「笑いもの」にしてしまうのです(32:25)。
2)偶像崇拝から始まる堕落
山の下で一体何が起こっているのか、モーセには分かりませんが、主は山の上からしっかりと見ておられました(9節)。そのため、モーセに対して山から下りるように命じます。主は、彼らが鋳物の子牛を造り、それを自分たちの神として礼拝していることを告げます。そして、主は「民は主の命じた道から外れ、堕落してしまった」と評価するのです(7-8節)。このように、心を頑なにして(=うなじを固くする)、堕落の道を進む彼らに対して、主の怒りが燃え上がります(10節)。しかし、主はイスラエルの父祖たちに誓った約束を果たすために、モーセを「大いなる国民とする」と言うのです(10節、参考;創世記12:2)。
私たちは「堕落」がどこから始まるかということを教えられます。それは、いつも「偶像崇拝」から始まるのです(しかも、ここでは異なる神を拝むという偶像崇拝ではなかった)。言い換えるなら、それは「主の教えられた道から外れること」です(8節前半)。まさに、アダムとエバも主が禁じておられた実を食べたことで、堕落の道に進んでしまいました。私たちもこのことを深く覚え、主の語ることばを丁寧に聞き、主の道を歩むものとさせていただきたいのです(詩篇1:1-2)。
3)とりなしを聞かれる神
主から民の堕落した状況を告げられたモーセはどのように答えたでしょうか。モーセは主に対して「この民は、私(=モーセ)が導き上った、私の民ではなく、あなた(=主)が偉大な御手をもって導き上った、あなたの民だ」と訴えます(7,11節)。さらに、「このまま御怒りをもって彼らを絶ち滅ぼしてしまうなら『あなたの名』が汚されてしまう」、また「かつての父祖たちの契約が破られてしまう」と迫るのです(12,13節)。こうして、モーセは主に対して「どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください」(12節)と嘆願します。
すると主は「わざわいを思い直された」のです(14節)。つまり、一度「堕落のゆえに滅ぼす」と決められたことが、覆されたのです。それはモーセのとりなしのゆえです。私たちの信じている神様は正義を行なわれますが、同時に私たちのとりなしの祈りを聞き、心を変えてくださる「あわれみ深いお方」です。この「神のあわれみ」のゆえに、私たちは再び主の道に立ち返ることができるのではないでしょうか。