金言
「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。」(第一ペテロ3:18)

説教題 「罪のもたらす責任」
聖 書 出エジプト記32章15~29節
説教者 栗本高仁師

 どのような行動に対しても責任は伴い、誰かがその責任を負う必要があります。果たして、金の子牛事件の責任は誰が負うのでしょうか。

1)向きを変えて、神の側に立つモーセ

 民のためにとりなしをしたモーセは「向きを変え、山から下り」ます(15節)。そして、山のふもとに近づくと声が聞こえるのです。ともにいたヨシュアは事情を知らないため「戦の声があります」と言います(17節)。しかし、モーセはその声は「歌いさわぐ声」であることを知っていたのです(18節)。
 モーセが実際に主から聞いた通りの状況であることを見ると、すぐさま「モーセの怒りが燃え上が」ります(19節)。そして、手に持っていた主との契約書(=2枚のさとしの板:15-16節)を投げ捨て、砕きます。つまり、契約破棄です。そして、さらに金の子牛までも焼き、粉々にして、何とそれらを水にまいて飲ませます(20節)。
 この姿を見ると、主に対してとりなしていたモーセとは別人のように思えます(11-13節)。しかし、これは単にモーセの個人的感情ではなく、「主の怒り」をもって(32:10)神の側に立って民に怒るのです(32:10)。つまり、民に代わって主にとりなしていたモーセは、まさに「向きを変えて」、今度は神に代わって民に怒るのです。そのような意味でモーセは真の仲保者であるのです。

2)責任を逃れるアロン

 モーセはアロンに対して何があったのかと尋ね、アロンの責任を問います(21節)。しかし、アロンは「この民が悪に染まっているのをよくご存じのはずです」と言って民に責任を押し付けます。彼は、民が何を言ってきたかは正確に語りますが(23節)、自分自身が何をしたのかは正確に語りません。アロン自身の手で「のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした」(32:4)にもかかわらず、「火に投げ入れたところ、この子牛が(勝手に)出て来た」(24節)というのです。明らかにアロンは責任転嫁をします。
 しかし、この姿は誰かに似ています。それは、人間の罪の始まりであった「蛇の誘惑」にあった「アダム」と「エバ」です(創世記3:12-13)。彼らは禁じられた木の実を食べた責任を、それぞれ「妻」と「蛇」に転嫁したのです。この姿は古今東西変わらない、私たち人間の現実ではないでしょうか。

3)罪の責任を負う

 その一方でモーセはどうしたでしょうか。彼は「聖なる、宝の民」とは程遠い姿を見て(おそらく異様な光景であったとうかがえる)、まず「だれでも主につく者は私のところに来なさい」と命じます(25-26節)。そして、集まったレビ族に、主が命じられたことを語ります。それは、金の子牛の首謀者たちを打つことでした。その中に、たとえ自分の兄弟、友、隣人がいたとしてもです。レビ族はその通りに主の裁きを執行し、約三千人が倒れます。彼らも、モーセと同様に、神の側に立ち、正しい裁きを行なったがゆえに、祝福を受けます(29節)。
 確かに神は、すべての民を絶ち滅ぼすということは「思い直され」ましたが、罪に対する代償は払わなければならないのです。「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6:23)とあるごとくに、罪の責任は重いものであることを深く覚えるのではないでしょうか。
 民の側に立つだけでなく、神の側に立って罪の裁きを執行する、それが仲保者の務めです。ところが、私たちの仲保者であるイエス・キリストは、モーセとは大きく異なる部分があります。それは、誰が罪の裁きを受けたかということです。モーセは罪の責任をその首謀者たちに負わせましたが、イエス様は「ご自身の身に」罪の責任を負われたのです(1ペテロ3:18)。罪の責任を思うときに、イエス様の身代わりの死がどれほどの恵みであるかが、迫ってくるのです。