聖 句「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20)
説教題 「共に祈る祝福」
聖 書 マタイの福音書18章19~20節
説教者 栗本高仁師
船橋栄光教会は31年目の歩みが始まりました。30周年において「ビジョンの具体化」について共に考え、「祈り」「学び」「交わり」を深めていくことが掲げられました。私たちは、やはりまず「祈り」から始めていきたいのです。
1)祈りとは
「祈りとは何ですか」という問いにどのように答えるでしょうか。それは一言でいうならば「神様に話すこと」です。私たちは神のことばを聞くことを大切にしていますが、神様は私たちの話も聞いてくださるのです。しかも、私たちは「お父さん」と呼べるほどに親しく神様と話すことができます(19節、マタイ6:9)。このように、聖書を通して神が語られることばを聞くこと(御言葉)と、私たちが神に語りかけること(祈り)を通して、私たちは父なる神様と生きた交わりをもてるのです。
聖書には、実際に神と人との「祈り」に満ちています。その例を挙げればきりがありませんが、誰よりもイエス様が祈りを大切にされました。イエス様は度々朝早くに、祈っておられました(マルコ1:35)。さらに、教会が誕生した時もクリスチャンたちは「いつも…祈りをしていた」(使徒2:42)のです。その後のあらゆるキリスト教運動は、実は「祈り」から始まっています。
このように見るときに、祈りは単に大切だというものではなく、神との交わりに必要不可欠であり、全ての働きの根源であると教えられるのではないでしょうか。
2)なぜ共に祈るのか
それでは「なぜ共に祈る」のでしょうか。イエス様は約束されました「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます」(19節)と。私たちの「共同の祈り」には絶大な力があり、祝福であることがわかります(18節)。しかし、それは単に一緒に祈るならではなく、異なる思いを持つ「二人」が「心を一つにして祈るなら」なのです。私たちは初めから「心を一つにすること」はできませんが、神は二人の信仰者を完全に調和させてくださいます。そして、私たちの最も最善な形で祈りに応えてくださるのです。
このように考えると、祝福は祈りがかなえられることだけではないことがわかります。「共に祈る」ことを通して、私たちに一致が与えられていくこと自体が祝福なのです。
「祈っている時ほど、人とのつながりを強く感じることはありません。また、この時ほど自分自身を取り戻して安らかさを覚えることはありません。私はほんとうに祈ることが好きです。想像力が豊かになるようですし、創造的な気持ちにもなります」(R・リンカー『共に祈る』より)
共に祈ることを通して、互いに愛し合う交わりが建て上げられるのではないでしょうか。
3)「わたし(イエス)もその中にいる」
イエス様はもう一つ私たちの祈りの祝福について教えておられます。それは「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」という約束です。そもそも、私たちの地上の祈りが、天の父なる神様に届くのは、イエス様がいてくださるからです。それゆえに、私たちは「イエスの御名によって祈ります」と最後に加えるのです。イエス様を通して、父なる神様との関係が回復し、今も私たちが共に祈るときに、そこにイエス様がいてくださって、祈りをとりなしてくださっています。この約束に支えられて私たちは共に祈ることができるのです。
そのため、私たちが共に祈るときに、「イエス様がここにいてくださる」ということに何よりも心を向けたいのです。十字架に架かられ、復活されたイエス様がともにいてくださるがゆえに、私たちは安心して率直な祈りをささげることができ、喜びといのちに満ちあふれた交わりとなるのです。