聖 句「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)
説教題 「あなたを捜し出す方」
聖 書 ルカの福音書19章1~10節
説教者 栗本高仁師
私たちは、何かしらの目的を持って、旅に出かけると思います。約2000年前、イエス・キリストというお方も「目的」を持って天から地上に来てくださいました。その目的とは「失われた者を捜して救うため」です(10節)。それでは「失われた者」とは誰のことなのでしょうか。また、「捜して救う」とはどういうことなのでしょうか。
1)「失われた者」とは…
今日の話に「失われた者」が出てきます。その名は「ザアカイ」で、彼の仕事は取税人でした(2節)。彼は敵国ローマのために、税金を集め、さらに多くのお金を騙し取っていました。それゆえに、ザアカイは「金持ちであった」のです(2節)。地位もお金も持っていた彼でしたが、同胞からは「罪人」と呼ばれていたのです(7節)。
そのようなザアカイのもとに、「イエス」が来るというニュースが飛び込んできます。イエス様が不思議な力で奇跡を行うことは、すでに広く知れ渡っていました。しかし、ザアカイが心惹かれた最大の理由は、イエス様が「罪人」と呼ばれる人と食事をともにしていたということです。普通の人がしないことを、イエス様がしていたため、ザアカイは「一目見てみたい」と思ったのです(3節)。
彼はどこか満たされない思いを抱いていたということです。自分の必要さえ満たされれば良いと考えていたのに、皮肉にも彼の心は満たされなかったのです。それは、自己中心の姿は、神様がデザインされた「本来の姿」からほど遠いためです。それゆえ、彼は「失われた者」なのです。しかし、それは私たち一人ひとりの現実でもあるのではないでしょうか。
2)「あなた」を捜すために来た
社会ではザアカイのような「失われた者」は放っておかれるでしょうが、イエス様は探し出してくださいます。しかし、まず探しているのはザアカイのように見えます。彼は背が低くイエス様を見ることができません。しかし「何としてでもイエス様を見たい!」と思い、いちじく桑の木に登ります(4節)。一方で「イエスはそこを通り過ぎようとしておられた」(4節)とあるように、イエス様はこの町を通過点としてしか見ていないように思えます。
しかし、イエス様はザアカイが上った木のところまで来たとき、足を止めて、目をあげます。そして「ザアカイ」と名前を呼ばれたのです(5節)。初対面であるはずのザアカイの名を、どうしてイエス様はご存じであったのでしょうか。それは、他の誰でもなくザアカイを捜すために、イエス様がこの町に来られたためです。
私たちも、自分の意志で教会に来たと思うかもしれません。しかし、イエス様は、間違いなくお一人おひとりの名前を呼び、ここに招いてくださいました。たとえ私たちが「失われた者」であったとしてもです。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」(ヨハネ15:16)とある通りです。
3)「失われた者」が救われるために
イエス様は「失われた者」を捜し出して終わるのではなく、救い出してくださいます。
イエス様は「ザアカイ」と名前を呼ばれた後、「急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家にとまることにしているから」(5節)と言われます。これは「あなたの家に絶対に泊まらなければならない」という意味です。イエス様を木の上から見ているだけでは、彼の満ち足りない心を埋めることはできません。彼が「失われた状態」から「本来の姿」に回復するためには、イエス様との親密な交わりが必要不可欠だったのです。
ザアカイはこの招きに応じて、「喜んでイエスを迎え」ました(6節)。どのような会話がなされたかはわかりませんが、このイエス様との交わりが彼の人生を180度変えたことは確かです。なぜなら、自分のことだけを考えて生きていた彼が、貧しい人たちのために、他者のために生きようと決意したからです(8節)。そのようなザアカイに、イエス様は「今日、救いがこの家に来ました」(9節)と宣言されます。見事に、イエス様が「失われた者」であるザアカイを捜し出し、救われたのです。 今日、イエス様はお一人おひとりをも捜し出し、救いたいと願っています。私たちへのチャレンジは、イエス様を「心の真ん中に(人生の中心に)」お迎えすることです。たとえ、私たちの心がどのような状態であったとしても、今すぐイエス様を迎え入れることができます。今日、私たちも「急いで降りて来なさい」というイエス様の招きに応えさせていただきましょう。