聖 句「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(出エジプト33:14)
説教題 「わたしの臨在がともに行く」
聖 書 出エジプト記33章12~17節
説教者 栗本高仁師
私たちはあらゆる場面で交渉することがあります。交渉とは「特定の問題について相手と話し合うこと。掛け合うこと」です。まさに、モーセは「神」と「神の民」の間に立つ仲保者として、神である主と交渉します。
1)わたしはあなたがたと一緒に行かない
金の子牛事件のことで、モーセは主に代わって民に裁きを執行します(32:15-29)。その翌日、モーセはもう一度主のところに行き、民の罪のために宥めをします(30-32節)。彼は「民の罪が赦されなければ自分も滅んでもいい」とまで言います。
しかし、主は「罪ある者は誰であれ、その罪の報いを受ける」と答えます(33-34節)。それでも「今は行って、わたしがあなたに告げた場所に民を導け」(34節)と言い、イスラエルの父祖たちとの約束を守られるのです(1節)。
さらに、その地に行くことができるように「一人の使いを遣わす」とも約束してくださいます(2節)。しかし、主は続けて「わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない」(3節)と言います。それは、民と一緒に行くならば、うなじの固い彼らを絶ち滅ぼしてしまかもしれないからでした。つまり、彼らのいのちを守るためだったのです。
モーセのとりなしのおかげで、イスラエルの民が進む道は開かれましたが、「主がともにおられない」という大きな問題が残ります。なぜなら、「主の臨在」こそが神の民にとっての生命線であったためです。
2)わたしの臨在が「モーセと」ともにいく
モーセはこの問題を解決すべく、主と交渉します。まず、モーセは主との一対一の関係の中で話を切り出します。モーセは「私がみこころにかなっているのなら、誰を一緒に遣わすかを知らせてください」と要求します。そのようにして、主が考えているこれからの道を教えてくださいと迫るのです(12-13節)。
しかし、モーセは最後に一言付け加えます。「この国民があなたの民であることを心に留めてください」と(13節)。モーセは主との一対一の関係で話をしつつ、民全体のために交渉を進めようとしているのです。
すると、主は「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」と答えます(14節)。民と一緒に行くかどうかは言及されませんでしたが、少なくともモーセと一緒に行くことは約束してくださったのです。
こうして、モーセ自身を足がかりとして「主の臨在がともに行く道」が一歩前進し、大きな一歩となったのです。
3)わたしの臨在が「あなたがたと」ともに行く
少し道が開かれたモーセは、すかさず最終的なゴールに向かって交渉します。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください」(15節)と。つまり、私(モーセ)だけでなく、私たち(モーセと民)と一緒に来てくださいと要求するのです。「そうでなければ、あなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることはできません」と迫るのです(16節)。
主は何とこのモーセの訴えにも応じてくださいます(17節)。こうして、最初は「あなたがたのただ中にあっては上らない」(33:3)と言っていましたが、最終的には民全体に「わたしの臨在がともに行く」ことを約束してくださったのです。私たちの神様は交渉に応じてくださるお方であるとは、何と幸いでしょうか。
しかし、主が交渉に応じてくださった理由はあくまでも「モーセがみこころにかない、モーセを名指しで選び出した」からです(17節)。みこころにかなっているモーセが、主の前でとりなしの交渉を行なったがゆえに、神の民イスラエルは「主の臨在」を取り戻すことができたのです。
教会なる私たちも同様です。仲保者イエス様がこの世に来てくださったがゆえに、「神われらとともにいる(インマヌエル)」道が開かれたのです(マタイ1:23)。そのことに感謝しつつ、なお主とともに人生を歩んでまいりましょう。