聖 句「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」 (出エジプト34:6-7)
説教題 「どのような神として信じるか」
聖 書 出エジプト記32章17~34章9節
説教者 栗本高仁師
私たちの持つ世界観が、私たちの人格形成や生き方に与える影響は、非常に大きなものと言えるのではないでしょうか。「どのような世界観を持つか」というのは、少し言い方を変えれば、私たちが「神をどのような方として信じているのか」ということです。
1)主の栄光を求めるモーセ
モーセの主へのとりなしのゆえに、主はモーセだけでなく、民とともに進んでくださることを約束しました(17節)。すると、モーセは主の臨在のしるしとして「あなたの栄光を私に見せてください」(18節)と懇願します。
主は、「良いお方」であるご自身の性質を表すごとくに、「あらゆる良きもの」を通らせると約束します。しかし、それだけではありません。「主の名で宣言する」とも言われます(19節)。名前はその方の本質を表すためです。モーセを召し出すときに主はすでに名を教えてくださいましたが(3:14)、ここでは「恵み」と「あわれみ」の主としてご自身を現すと言うのです(19節)。
ただし、主の顔を直接見ることはできません。なぜなら、主の顔を見ると死んでしまうからです(20節)。そのため、主の栄光が通り過ぎるとき、主はモーセを岩の裂け目に隠し、手で覆ってくださるのです。しかし、モーセは主の後ろ姿を通して栄光を見ることができます。
神様は私たちにもご自身を現そうとされています。それを見たいと願うでしょうか。
2)再び契約を結ぼうとしてくださる
それでは実際にどのようにしてモーセは主の栄光を見たのでしょうか。主は、モーセにもう一度シナイ山に登るよう命じます(2節)。それは、金の子牛事件を機に、一度は破棄されてしまった契約をもう一度結ぶためです。そのため「前のものと同じような二枚の石の板」を持ってくるように言います。
このとき、登ることが許されたのは「モーセ」だけでした。主の栄光を現すときには危険が伴うからです。そして、翌朝早くいよいよモーセは主の命じた通りにシナイ山に登ります(4節)。
こうして、主の方からもう一度「契約書」を書こうとしてくださるのです。ここに、主の恵みとあわれみが表されているのです。
3)あわれみ深い神
このとき、主は雲の中にあって降りて来られて、モーセの前に立ち、約束通り(33:19)「主の名を宣言され」ます(5節)。このところに、まさに、主はどのような神であるのかということを、自己啓示してくださったのです。そこには二つの面がありました。
一つは「あわれみ深い、情け深い、怒るのに遅い、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す」という積極的な面です(6-7節前半)。実は、このことばは神の民の「信仰告白」となったほどに重要です(例えばネヘミヤ9:17,詩篇103:8,ヨナ4:2など)。これほど多くのことばを並べて、主がどれほどあわれみ深い方であるかを表すのです。
しかし、もう一つの面があります。それは「罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、…三代、四代に報いる」という消極的な面です(7節後半)。神は悪いことは悪いものとして正しくさばかれるのです。
この両側面に私たちは矛盾を感じるかもしれません。しかし、罪に対する罰は一世代のみで終わり、過剰にはなされないことがわかります。それに対して恵みは千代と、あわれみは尽きないことがわかります。まさに、主がもう一度民とともに行くと約束されたのは、この「神のあわれみ」によったのです。 私たちが信じている聖書の神様は、本当にあわれみ深いお方です。神がひとり子を惜しまずに与えてくださったことに(ヨハネ3:16)、そのご性質が最もよく表されています。この神様のあわれみ深さを私たちも告白し続けようではありませんか。