聖 句「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:18)
説教題 「神の栄光を映すものへと」
聖 書 出エジプト記34章27~35節
説教者 栗本高仁師
私たちは誰かの影響を受けるものです。そして、影響を受けた人は、影響を与えてくれた人を映し出します。まさに、モーセは主との交わりの中で、主を映し出すものとなりました。
1)主はあわれみによって再契約された
主はモーセにもう一度シナイ山に登りなさいと命じました。それはイスラエルと再契約して(10節)、もう一度石の板を授けるためです(1節)。主はモーセに何を語られたのでしょうか。その内容が11-26節までに記されています。
ここでは、3つのことが語られています。
①外国の住民が信じているほかの神を拝んではならない(11-16節)
②鋳物の神々を造ってはならない(17節)
③イスラエルの神「主」を覚える祭りを守りなさい(18-26節)
なぜこのようなことが語られたかというと、直前で金の子牛事件を引き起こしたためです。彼らとともに歩んでくださるイスラエルの神「主」のみを、それも相応しい方法で、礼拝しなければならないことが語られるのです。
このようにして、主はもう一度、モーセを含むイスラエルの民と契約を結び(27節)、契約のことばである「十のことば」が記された石の板が授けられたのです(28節)。すべては「神のあわれみ」のゆえでした。
2)神と語り合ったモーセの顔が輝く
モーセは二枚の石の板(さとしの板)を手に持って、山から下りてきました。前回は偶像崇拝を行なっていた彼らでしたが、今度はモーセを出迎えます。しかし、アロンとイスラエルの子らはモーセを見て、恐れて彼に近づこうとしません。なぜなら、モーセの「顔の肌は輝きを放っていた」ためです(30節)。実はモーセはそのことに気づいていませんでした(29節)。これまで彼は「四十日四十夜、主とともにいて」(28節)、「主と話したために」(29節)、主の栄光を映し出していたのです。「あなたの栄光を私に見せてください」との彼の願い通りに、主は栄光を見せてくださったのです。
モーセが彼らを呼び寄せたために、アロンと族長たちは戻って来ます(31節)。そして、モーセは彼らに話しかけ、主がシナイ山で告げられたことをことごとく命じます(31-32節)。そして、語り終わるとモーセは顔に覆いをかけます(33節)。なぜでしょうか。おそらく、主のことばを語るときだけ特別に、主の栄光を輝かせていたのでしょう。そのように考えるならば、それは、もはや「モーセが語っている」のではなく、「主ご自身が語っている」と言えるのです。このように、モーセを通して、民も主の栄光を見ることができたのです(35節)。
3)キリストを通して、神の栄光を表す私たち
私たちはこの出エジプト記を通して、仲保者モーセは「イエス・キリスト」を指し示す存在であると見てきました。まさに、イエス・キリストも三人の弟子たちの前で、主の栄光を輝かせました(マタイ17:1-2)。天の神様から「これはわたしの愛する子」と真実に認められた「イエス・キリスト」を通して、私たちも完全な神の栄光を見ることができるのです。
それだけではありません。パウロは、イエスを信じる私たち教会もモーセと同じように「主の栄光を輝かせる存在となっていく」と語るのです(Ⅱコリント3:18)。しかも、パウロは世俗的な多くの問題を抱えていたコリントの教会に向けて語るのです。どれほど問題があったとしても、私たち教会は、そのような尊い、聖なる存在であるということを覚える必要があるのではないでしょうか。
そして、私たち人間には問題しかないからこそ、主の栄光のかたちに変えられていくことは「御霊なる主の働きによる」のです(同3:18)。だからこそ、ますます私たちは聖霊を求めていきたいのです。そして、この暗い世界にあって、主の栄光を輝かせる存在となっていこうではないでしょうか。