金 言「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」(エペソ2:10)

説教題 「私たちが目指すもの~良い行いに生きる~」
聖 書 エペソ人への手紙 2:1~10
説教者 栗本佐和師
 
 すべての人には、過去・現在・未来があります。たとえどのような過去を持っていたとしても、人はみな、今を生き、より良い未来に進んで生きていきたいものではないでしょうか。本日の箇所にも、私たちの過去・現在・未来が書かれています。聖書はそれらについて何を語っているのでしょうか。

1)かつての私(1-3節)

 エペソ書の大きなテーマは、「神による新しい共同体」です。「新しい共同体」の大きな特徴は、キリストにあってすべてのものが、さらには分裂していたもの(ユダヤ人と異邦人)さえも一つとされるということです。
手紙の書かれた当時、ユダヤ人と異邦人は互いに差別したり蔑んだりしており、こうした欲のままの行為が分裂という罪を引き起こしていました。罪に抵抗することなく生きることは「空中の権威を持つ支配者」、悪しき霊に従う生き方です(2節)。パウロはこうした罪の現実を「あなたがた(1節)」、「私たち(3節)」という名指しをした上で語り、今日の私たち自身にも過去の姿(罪の中に死んでいた状態)を思い出させるのです。
しかし驚くべきことに、1~3節はすべて過去形となっており、私たちが罪の中に死んでいたことは、過ぎ去ったこととされています。一体何が起こったのでしょうか。

2)今日の私(4-8節)

 1~3節までは、私たち人間の姿が描かれていましたが、4節は「あわれみ豊かな神(4節)」が愛の門を開いてくださっている様子から始まります。神はその大きな愛をもって、罪に死んでいた私たちを生かし、よみがえらせ、天上に座らせてくださいました。ただしこれはすべて、「キリストとともに」起こったことです(5,6節)。繰り返される「ともに」ということばが、二千年前のキリストのわざと今日の私たちを深く結びつけています。私たちはキリストの十字架によって、古い自分に死んで新しいいのちをいただき、今は罪から解放された自由な者とされています。これは、キリストにあって神のみが与えることのできる「限りなく豊かな恵み」です(7節)。
 ただし、ひとつパウロが念押ししていることがあります。それは、この恵みも信仰も、私たちが自力で得たものではないのだということです(8,9節)。ただただ一方的な神の愛によるものなのです。私たちは与えられたこの恵みを存分に味わい喜びましょう。

3)これからの私(9-10節)

 パウロは私たちに、①私たちの本来の姿、②その私たちに与えられている使命という二つのことを思い起こさせます。創世記において人間は、神ご自身によって形造られた「神の作品=神のかたち、似姿」でした(創1:26)。そして、神の作品である私たちに与えられた使命が「良い行い(10節)」です。
 けれども、私たちは罪によって、損なわれた「神の作品」となってしまい、「良い行い」をしたいとの願いがあっても、自分の力ではそれを成し得ないという現実があります。しかし、パウロは「良い行いは神があらかじめ備えてくださっている(10節)」と語ります。ですから、私たちがすべきことは、この神に信頼して一歩踏み出すことなのです。
 実は、「神に信頼して良い行いに生きる」という生き方を、私たちはすでによく知っています。これは他でもないイエス・キリストの生き方です。私たちは、キリストが生きたように生きるとき、「クリスチャン」と呼ばれるのではないでしょうか。生き方が変われば、行いが変わってきます。そうして私たちは、イエス・キリストを目指して、生涯成長し続けていくことができるのです。

 私たちは分裂の時代を生きています。そのような中でキリストにならって「良い行い」に生きることは難しいことかもしれません。しかし、神に信頼して歩むとき、必ず道は開かれます。私たちが良い行いに生きるとき、分裂は一致へと変わっていきます。これがキリストにある「新しい共同体」です。神に召された者たちとして、ご一緒に成長させていただきましょう。