聖 句「そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」 (出エジプト40:34)
説教題 「主の栄光が満ちたときに」
聖 書 出エジプト記40章16~35節
説教者 栗本高仁師
どのような話でもクライマックスは重要です。出エジプト記において、ここまで多くの驚くべき出来事がありました。しかし、クライマックスは実はこの最後の部分にあるのです。
1)主が命じられたとおりに
金の子牛事件を引き起こしたイスラエルの民は、モーセのとりなしと主のあわれみにより、再度主と契約を結ぶことができました(33-34章)。そのため、主が民と一緒に進んでくださることになったのです。そこで、実際に主が住まわれる「幕屋」の建築が始まり、幕屋の各部分が民によってつくられます(35-39章)。
各部分の作成が完了した後、主はモーセに「あなたは会見の天幕である幕屋を設営しなければならない」(1節)と命じます。そして、モーセは「すべて主が彼に命じられたとおりに行い」ます(16節)。具体的には、①幕屋の建物(18-19節)、②至聖所とあかしの箱(20-21節)、③聖所の机(22-23節)、④聖所の燭台(24-25節)、⑤聖所の金の祭壇(26-27節)、⑥全焼のささげ物の祭壇(28-29節)、⑦洗盤(30-32節)、⑧庭とその周囲の垂れ幕(33節)が、順々に設置されます。そして、モーセはその仕事を終えます。
ここで興味深いことは、「主がモーセに命じられたとおりに」が7回繰り返されることです。まるで、天地創造の七日間を象徴しているかのようです。この幕屋は、確かに民とモーセが作りましたが、すべて「主の命じられたとおり」だったのです。つまり、天地がそうであったのと同様に、主がイニシアチブを取って、この地に住もうとしてくださったのです。
2)主の栄光が満ちた
その時、「雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ち」ます(34節)。主の栄光とは、主の臨在そのものです。主ご自身が、民の真ん中に来てくださいました。主はモーセに対して「わたしの臨在がともに行く」と約束し、モーセだけでなく民全体と一緒に行くことも約束されました(33:14-17)。この約束が、今ここで果たされたのです。その証拠に、「モーセは会見の天幕に入ることができなかった」(35節)とあります。
まさに、「主の栄光が満ちる」ことが、出エジプト記のクライマックスでした。「なぜイスラエルの民をエジプトから連れ出したのか」、「なぜ彼らと契約を結び、律法を教え、幕屋の作り方を教えたのか」、すべては「主が民の間に住む」ためだったのです。
神は、この天地万物を造り、そのすべての被造物を見たとき、「それは非常に良かった」(1:31)と言われました。主の栄光が満たされたためです。しかし、人は堕落し、主の栄光から遠ざけられました(3:23-24)。だからこそ、主は再び幕屋を作らせることによって、この世界にご自身の栄光を満たそうとされたのです。神は世界が回復されることを、誰よりも願い、そして行動してくださるお方なのです。
3)それゆえに主と共に歩める
イスラエルの民は、この後、実際にシナイを離れて、約束の地へと旅路を進めます(民数記)。彼らはどのようにして旅を進めたのでしょうか。彼らは、主の臨在である「雲」が上るまではそこに留まり、上った時に旅だったのです(36-38節)。主は民の一歩前を進んでくださり、彼らは昼も夜も、その主を前にして(=「イスラエルの全家の前には」)、旅路を進んだのです。そのような意味で「主の臨在」こそが、民にとって必要不可欠な存在であったのです。
私たち教会の旅路も、信仰者の旅路にも、欠かすことのできないものは「主の臨在」です。今や私たち教会は、キリストのわざを通して、送られた聖霊により、天の神である主と共に歩むことができるのです。私たちは、主を「前に」おいて歩むように招かれているのではないでしょうか。
主は、御言葉とともに働き、私たちを先導されます。聖霊の導きを求めながら祈り、神の御言葉を聞く、私たちの歩みとさせていただきましょう。