聖 句「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」 (出エジプト19:6)

説教題 「神の民、教会の旅路」
聖 書 出エジプト記19章4~6節
説教者 栗本高仁師

 全49回で出エジプト記を順番に見てきました。最初に、この書を通して、神が選ばれた「神の民=教会」について考えていきましょう、と述べように、まさにこの書は私たち神の教会の物語です。まとめとして、出エジプト記から見る、私たち教会の旅路について考えていきます。

1)私たち教会は何ものか?

 まず、私たち教会は一体何ものであるのか、ということです。
 出エジプト記は、ヨセフの時代に移住したイスラエルの民が増え広がり、地に満ちた、というところから始まっています(1:7)。しかし、ヨセフを知らない王の時代となり、ファラオは彼らを脅威に感じたため、奴隷として重い労役で苦しめます。このファラオの支配は、私たち全ての人に対する「罪の支配」を表しています。罪は私たちを苦しめるだけでなく、その支配の中にとどまりたいと思わせるほどに、恐ろしいものです。
 しかし、主はイスラエルの苦しみを見て、嘆きを聞かれます(2:24-25)。そして、彼らの父祖たちとの契約のゆえに、主は十のわざわいを下し、葦の海で戦うことで、ファラオの支配から民を解放したのです(1-15章)。私たち教会も、主の一方的なわざによって、この罪の支配の中から解放され、(全世界を治める方である)主のもの(=神の民)とされたのです(4節「わたしが…したこと、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきたこと」)。すなわち、私たちは本来の主人のもとへと帰ることができたのです。

2)私たち教会は何のために「神の民」とされたか?

 次に、私たち教会が「神の民」とされた目的は何か、ということです。
 ファラオの支配から解放されて、「主のもの」とされたイスラエルに、主は一つの提案をされました。それが「あらゆる民族の中にあって、わたしの宝とな」らないかというものです(5節)。「祭司」として「聖なる国民」として、主の祝福を取り次ぐという使命が与えられたのです(6節)。
 ここに、私たち教会が神の民とされた目的が表されています。私たち教会が「罪の支配から解放されて主のものとされた」のは、ただ私たちが罪の苦しみから解放されるためではありません。「全世界はわたしものである」と言われる神様は、世界の全ての者が、この罪の支配から解放されて、主のものとなることを願っておられます。そのために、私たち教会は、この「救いの光」を輝かせる使命が与えられているのです。

3)私たち教会が使命を果たすために

 3つ目は、私たち教会が使命を果たすためには必要なことは何か、ということです。
 主は、イスラエルの民に、全世界の宝となるために、契約を結びます(5節)。その具体的な内容が、律法の授与と幕屋建築です(20-40章)。そして、「主の栄光が幕屋に満ちた」(40:34)というクライマックスを持って、出エジプト記は閉じられます。すなわち、彼らが使命を果たすために最も重要なことは、主が住まわれる(主がともにおられる)ことです。あくまでも、律法はそのための手段だったのです。しかし、イスラエルの民にとって、この主の臨在が現実になるためには、モーセという仲介者なしには考えられませんでした。彼のとりなしゆえに、イスラエルの真ん中に主の栄光が満ちたのでした。
 私たち教会にとっても同様です。主の臨在なくして、使命を果たすことはできません。そして、その道を開いてくださったのがイエス・キリストです(ヨハネ1:14,14:6)。だからこそ、私たち教会が使命を果たすためには「イエスにつながり続けること」(ヨハネ15:4)が大切なのです。さらに、私たちには聖霊が与えられ、私たちの心に律法が書き記さました(エレミヤ31:33、2コリント3:3)。(律法に象徴される)聖霊を通して、イエス・キリストという幕屋に、主が住まれ、使命を果たすのです。
 
 私たち教会は、イエス・キリスト、聖霊とともに、神の民として世界を祝福する旅路を歩ませていただきましょう。