聖 句「まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか」 (ルカ18:7)
説教題 「叫び求める者たちのために」
聖 書 ルカの福音書18章1~8節
説教者 栗本高仁師
7月から小グループの祈り会を始めました。私たちは「できる限り率直に祈る」ということを大切にしたいと願っています。そうであるならば、私たちの祈りはときに「嘆き」や「叫び」が含まれて当然ではないでしょうか。
1)不正な裁判官とやもめのたとえ話
イエス様は「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために」一つのたとえ話をしました(1節)。
まず、登場するのが「裁判官」です。彼は「神を恐れず、人を人とも思わない」(2節)「不正な裁判官」(6節)でした。聖書で最も大切な教えである「神を愛すること、隣びとを愛すること」を、全く無視する者だったのです。その裁判官のもとに「一人のやもめ」がやって来ます。そして、不当に訴える人から守ってください、と願い出ます(3節)。ただでさえ社会的に弱い立場にあった彼女が、この裁判官のもとに来たというのは、まさに最悪の状況です。
神様を恐れる裁判官であるならば「やもめ…はみな、苦しめてはならない」(出エジプト22:21)という聖書の教えを守ったはずでしょう。しかし、それとは正反対の裁判官であるため、当然のことながら彼は「しばらく取り合」いません(4節)。しかし、彼女はあきらめないのです。何度も何度も、この不正な裁判官に願い出ます。そして、ついに彼は根負けして、彼女の願いを聞き入れ裁判をすることにします(4節)。
2)私たちは嘆きの祈りをしても良い
このやもめが「叫び求めた」という姿から、私たちの祈りについて教えられます。私たちは、いつも喜びと感謝の祈りでなければならないと考えてしまうことがあるかもしれません(1テサロニケ5:16-18のゆえに)。もちろん、それは大切なことですが、私たちの祈りは喜びと感謝だけではありません。私たちの信仰生活の中で、嘆かざるを得ない、叫ばざるを得ない状況になることがあります。イエス様は、そのような私たちに「神の前に、嘆いたり、叫んだりして良い」ということを教えておられるのです。
事実、詩篇の詩人たちは、神様の前に多くの嘆きの祈りをささげています(例えば詩篇139篇)。詩篇は決してきれいごとだけが綴られているのではありません。そして、そのような嘆きや叫び、悲嘆や失望を神様は受けとめてくださるのです。私たちは、神様に嘆くということを忘れてはいないでしょうか。
3)私たちの祈りを聞かれる方のご真実
そして、私たちの嘆きの祈りは、空を打つようなものでは決してありません。最後にイエス様は言われました。この不正な裁判官でさえ願いを聞いてくれたのなら、まして正しい神は、私たちの叫びを速やかに聞いてくださる、と(7-8節)。ご真実な神様は、私たちの叫びに対して、正しいさばきをしてくださいます。
ここに、私たちが「いつでも祈るべきで、失望してはいけない」ことの理由が明らかにされます。それは、私たちの祈りを聞かれる方が不正な裁判官とは異なり、「正義と真実を行う方」であるためです。私たちが祈るときに目を留めるべきことは、「私たち自身の祈りの豊かさ」ではなく、「祈りを聞かれる方の真実さ」なのです。このような信仰が私たちのうちにもあるだろうかと問われるのではないでしょうか(8節)。
私たちの祈りを聞かれる方は、どれほど正しく、真実なお方でしょうか。それゆえに、私たちは失望せずに、率直に(喜びであろうと、感謝であろうと、嘆きであろうと)祈り続けることができるのです。