金 言 
「イエスは再び人々に語られた。『わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。』」(ヨハネ8:12)

説教題 「神のわざが現れるために」
聖 書 ヨハネ9:1~12
説教者 井上義実牧師

 イエス様は弟子たちとエルサレムの町を歩かれていました。私たちは自分の興味あるものに目が止まります。美味しそうな食べ物屋、小ぎれいな雑貨屋、美しい花屋、通りがかる車・バイク・自転車・電車、… イエス様が目を止められたのは、目が不自由で物乞いをして暮らしていた男の人でした。多くの人は、例えその人が目に入っても目をそむけ、見て見ぬふりをしたかも知れません。イエス様はこの人の前に足を止められました。イエス様がこの人に深い関心を持たれていたことが分かります。

1)弟子たちの問い

 弟子たちはこの人を見てこの人の目が不自由なのはこの人が罪を犯したのか。両親が罪を犯したのかとイエス様に尋ねています。悪い結果には悪い原因があるという考えを持つ。因果応報という考えは日本人にも染みついています。
 Cf.50年以上前の子ども時代、お祭りに見せ物小屋が出ていました。「親の因果が子に報い。生まれついたのがこの子でござい。」という口上は有名です。余りに、おどろおどろしく、まがまがしいので近づけなかったです。
 全く逆に、善い人が苦しむことも少なくないでしょう。悪い人が栄えていることも多くあります。弟子たちが考えているようなことは、本来あり得ない話なのです。弟子たちがもし自分の家族に目が不自由な人がいたらどうだったでしょうか。自分の友人が失明したらどうだったでしょうか。そのように考えると、この質問の根底には、自分とは関係が無いという冷たさがあります。人に対してどれほど関心を持つのか、共感するのかということは大切なことなのです。

2)イエス様の答え

 イエス様はこの弟子たちからの問いかけに対して、はっきりと違うとおっしゃっています。「この人に神のわざが現れるためです」という理由を語られました。神様の働きということは、人間の働きでは届かないものです。人間の働きを超えたものになります。神様の愛、神様の力、神様の真実によってこそ初めて成し遂げられることをイエス様は言われました。
 そのためには、
1. ヘリ下る
人間は頭を垂れてへりくだらなければなりません。私たちは神様の前に引き下がる必要があります。
2. 忍耐を持つ
神様を待ち望むという忍耐が試されます。
3. 聞き取る
神様の言葉を聞きもらさず、耳をそばだてます。
4. 従い行動する
神様に従うという行動が必要とされます。この目の不自由な人はイエス様のなさるままに任せました。目に泥を塗ったまま、手探りでイエス様が命じられたシロアムの池に行きました。この人はシロアムの池で目を洗い、見えるようになりました。
 神様が何を語っておられるかを聞き、神様に従っていきます。そこに神様のわざが表されるのです。私たちが神様を信じる信仰生活においても同じなのです。

3)闇から光へ

 この人は目が見えるようになりました。闇の世界から光の世界に移されました。まっ黒の世界から色彩のあふれる美しい世界に移されたのです。イエス様が近づいてくださり、イエス様が触れてくださり、イエス様の言葉に従うならば、私たちも変えられます。
 Cf.私も信徒家庭に生まれました。そのことは大きな恵みでした。しかし、田舎町で周囲に誰も信徒家庭の子どもたちもいませんでした。窮屈で自由がないとずっと思いこんでいました。早く大人になって自由に暮らしたいというのが子ども時代の願いでした。自分は神様なしで暮らしていけるという思い上がりがありました。大学時代に親元を離れて、教会には行かないと思っていたのに教会に行くようになりました。その中で、神様に対する自分の考えが間違っているのだろうかと自問するようになり、大学2年目の秋に回心しました。私は目が見えていても自分は見えない人間だったということに気づきました。目に入るものが新しく見えるという経験をしたのです。これまで待ってくださっていた神様の愛に応えて生きたいと言う思いが今につながっています。…

 イエス様の弟子たちでさえ、自分たちの世界で考え、間違っていました。イエス様は私たちに今も近づいてくださり、語り続けておられます。一人一人に神のわざを表そうとされています。私たちもイエス様によって神様の恵みの中に進み出ていきましょう。神様の光に照らされた世界、近づけば近づくほど大きくなる輝きに向かって。