聖 句「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」(エレミヤ31:3)

説教題 「わたしはあなたを見捨てない」
聖 書 ルカの福音書15章11~24節
説教者 栗本高仁師

 私たちは人生の中で取り返しのつかないことをしてしまうことがあります。今日イエス様が話したたとえ話には、本当に取り返しのつかないようなことをしてしまった息子が登場します。

1)神から離れて生きる人

 ある人に二人の息子がいて、弟息子の方が父に生前贈与を求めます(11-12節)。これは父を侮辱するような発言ですが、父はあっさりと息子たちに財産を分けます。すると、弟息子はそそくさと荷物をまとめて遠い国に行ってしまいます(13節)。とにかく、彼は父の家を離れて自由に生きたかったのです。
 彼はそこで望み通り、自分の好きなように生きることができました(13節)。当然それはいつまでも続きません。彼はすぐに「何もかも使い果たし」てしまいます。さらに、「その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始め」てしまいます(14節)。何とか身を寄せてもらうことはできましたが、奴隷のような扱いを受け、誰も食べ物を与えてくれません(15節)。一時の自由と引き換えに、彼はすべてを失い、まさに取り返しのつかないところまで行ってしまいました。
 これは過去の、誰かの話ではありません。この弟息子の姿は、紛れもなく私たちすべての人に当てはまる人間の姿です。私たちも、本当の父である神様から離れて、自分の欲望のままに自由に生きたいという欲求がないでしょうか。それを聖書では罪と言います。私たち一人ひとりはどうでしょうか。

2)帰りを待つ神

 弟息子は、取り返しのつかないことをして、すべてを失ったように見えます。しかし、彼にはまだ残っているものがありました。それが、父の存在です。彼は幸いにも、このどん底の状況で「我に返って」そのことに気づくことができました(16節)。父のもとにはパンのあり余る多くの雇い人がいることを思い起こし、自分も雇い人の一人にしてもらおう考えるのです(17節)。
 彼は立ち上がり、自分の父のもとへ向かいます(19節)。その時、驚くべきことが起こります。彼はまだ家までは遠く離れたところにいましたが、何と「父親は彼を見つけ」るのです(20節)。それは偶然ではありません。父は彼が家から出て行った日以来、来る日も息子が帰ってくるのを待っていたのです。
 私たちを造られた神様は、自分勝手に生きる私たちの帰りを待っていてくださいます。どれほど取り返しのつかないところにまでいったとしても、それは変わりません。私たちには帰る場所があるのです。これほど安心できることはありません。

    3) 愛するわが子として迎える神

     さらに、私たちはこの父の姿に驚きます。父は単に帰りを待っていただけではありません。
     父は帰ってきた息子をかわいそうに思い、駆け寄り、抱きしめしてくれるのです(20節)。息子は父に言います「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう息子と呼ばれる資格はありません」(21節)。そして、もう一言「雇い人の一人にしてください」と言おうとするや否や、父は彼の言葉をさえぎってしもべたちに命じます。「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物を履かせなさい。そして、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう」と(22-24節)。父は「雇い人の一人」にはさせません。離れていった彼を、「愛するわが子」として迎えるのです。
     これが、私たちを造ってくださった神様の姿です。たとえ神様から遠く離れて生き続け、人間的には取り返しのつかないような状況になったとしても、神様は変わらずに「愛するわが子」として迎えてくださるのです。それゆえに、私たちはこの方を「恵み深い神様」と呼ぶことができます。神様は受けるに値しない私たちを、常識を超えた大きな愛で包み込んでくださいます。

     神様は、お一人おひとりに「わたしはあなたを見捨てない」と言っておられます。この変わらない神様のもとに帰り、愛の神様のもとでこれからの生涯を歩んでいきませんか。