
聖 句「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。」 (ルカ1:47-48)
説教題 「神のあわれみをうたう」
聖 書 ルカの福音書1章39~56節
説教者 栗本高仁師
「主、主はあわれみ深く、情け深い神」(出エジプト34:6)という信仰告白は、この新約聖書をも貫いています。
1)エリサベツからの祝福
マリアは受胎告知を聞いた直後、すぐにユダの町にあるザカリヤの家に行き、エリサベツに会いに行きます(39-40節)。その理由は、御使いガブリエルを通して「あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています」(36節)と聞いたからでしょう。マリアがあいさつをしたとき、神が働かれます。何とエリサベツの胎にいた子が踊り、彼女は聖霊に満たされます。そして、マリア自身と彼女の胎の実が祝福されている、と叫ぶのです。それは、その子が「主」であり、マリアが「主の母」であることがわかったからです。つまり、イスラエルの民が待望していた「メシア」が、マリアのお腹の中にいることがわかったのです。その理由は「胎内で子どもが喜んで踊」ったためです(44節)。ヨハネは、イエスに先立つものとして、胎内にいる時からイエスを迎えたのです。エリサベツは最後に言います「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです」(45節)と。
この時マリアは神の約束を信じて一歩踏み出していましたが、そこには少なからぬ不安があったでしょう。しかし、これらのエリサベツの言動によって、彼女の信仰を強めたのではないでしょうか。神が働かれる時、相応しい助け手を備えてくださることを覚えたいのです。
2)この私に目を留めてくださる神
このエリサベツとの出会いを通して、マリアの口から神への賛美が生み出されます。彼女は、まず「主をほめたたえ…神をたたえます」(46-47節)。「あがめる」とは「大きくする」という意味があります。「大いなる方が、私に大きなことをしてくださった」(49節)とあるように、神の偉大なわざ(=メシアを宿すということ)のゆえに、彼女は神を「あがめる(大きくする)」のです。
しかし、単に神が大きなことをしてくださったからだけではありません。マリアは「この卑しいはしために目を留めてくださったからです」とうたいます(48節)。自分自身の卑しさを知っていたからこそ、神を「ほめたたえる(喜ぶ)」ことができたのです。そして、「今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」(48節)と確信したのです。
私たちも、自らの「卑しさ」を痛感することがあります。しかし、神はそのような「私に目を留めてくださる」のです。ここに、神のあわれみが表されるのです。
3)約束を果たされる神
マリアは単に個人的な感謝を賛美するだけではありません。彼女にあらわされた「あわれみ」が「主を恐れる者(すべて)に及びます」とうたうのです(50節)。なぜそのように言えるのでしょうか。
それは、メシアであるイエスの誕生自体が、主が「あわれみを忘れずに」おられたことのしるしであるためです(54節)。イスラエルの民は、長らく列強に支配され、「神は私たちを忘れておられるのではないか」と思っていたかもしれません。しかし、神は決して忘れてはおられなかったのです(55節)。神は、この「あわれみ」をイエスの誕生において、完全に表してくださったのです。そして「高ぶる者」「権力のある者」「富む者」が力を持つ世界から、「低い者」「飢えた者」が高く引き上げられ、満ち足りる世界へと逆転させてくださるのです(51-53節)。
まだまだ不条理な世界であることは認めざるを得ません。しかし、神はすでに「メシアが生まれる」という約束を果たしてくださいました。それゆえに、私たちもこの神のあわれみが「主を恐れる者」に及びます、と賛美することができるのです。
エリサベツとマリアの出会いによって、神のあわれみをうたう賛美が生まれました。私たち一人ひとりに注がれた神のあわれみを思い起こしつつ、このあわれみは尽きないということを告白しつつ、主をあがめ、主をほめたたえようではないでしょうか。