聖 句「すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。 (ルカ1:64)
説教題 「沈黙の先に見えてくる世界」
聖 書 ルカの福音書1章57~80節
説教者 栗本高仁師
私たちにとって「沈黙」とはどのような意味があるでしょうか。ザカリヤは御使げを信じることができず、長い間口が閉ざされていました。
1)沈黙の中で見た神の救いのわざ
彼はこの間、二つの出来事を目の当たりにします。一つは、約束通りにエリサベツがみごもり(1:24)、男の子を産んだということです(57節)。もう一つは、ヨハネの後に、エリサベツの親類であるマリアが救い主を宿したということです。エリサベツの出産前に、彼女の親戚であるマリアが彼らのもとを訪ねてきました。その時の彼女たちのやりとり(1:39-56)を、ザカリヤも(話すことはできなかったが)聞いていたのです。こうして御使いに告げられた通り、ヨハネはただの男の子ではなく「主(救い主)に先立つ存在」であることがわかったのです。
このように、彼は沈黙の中で、神の救いのわざの進展を見ました。彼は「神様はご計画の通りに、確かに事を進めておられる」と思ったことでしょう。それゆえに、彼の内には神への賛美が生み出されたのです。そして、彼らがその子に「ヨハネ」と名付けたとき、いよいよ「ザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ」ます。その瞬間、神への賛美があふれ出たのです(64節)。彼にとって、この沈黙期間は非常に意味のあるものであったのではないでしょうか。
2)神は顧みてくださる
さらに、彼は聖霊に満たされて預言します(67節)。ヨハネの誕生直後ですが、まず主への祝福の賛美がささげられます(68節)。それは、ヨハネの誕生は、単に老夫妻に起こった奇跡というより、むしろ神の救いのご計画の一部であったからです。ザカリヤはその救いの進展を見て、「主はその御民を顧みて、贖いをなし、救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた」(68節)とうたいます。この「顧みる」という言葉に注目する時、かつて出エジプトにおいてなされた神の救いの出来事が思い起こされます(出エジプト3:16)。かつてエジプトに支配されていたのと同じように、イスラエルの民はローマに支配されていました。しかし、今や神が約束の通り(70節)、救い主を送り(69節)、その支配から解放してくださることを預言するのです(71節)。そして、本当の神に仕えることができるようになるのです(74節)。
ザカリヤは「神が顧みてくださる世界」を見ることができました。私たちも沈黙の中にあっても、必ずそこを通り抜けることができます。そして、その先に神の顧みを経験できるのです。「神は確かに顧みてくださった」と言い得るまでに、主は私たち一人ひとりを導かれることを信じようではないでしょうか。
3)闇を照らしてくださる
最後に、ザカリヤはヨハネについて語ります。「幼子よ、あなたこそいと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え」ると(76節)。その道とはここまで語られてきた「救いの道」のことですが、ここでは「罪の赦しの救い」と言われます(77節)。目に見える「ローマ」という敵もいましたが、彼らにとっての最大の敵は「罪」です。イスラエルは、自分たちの神に対して不信仰な歩みをずっとしてきたのです。
その不信仰の現実は、ザカリヤの中にも存在していました。彼は正しい人でしたが、神の語られたことを信じることができませんでした。この沈黙の中で、自身の不信仰を見せられたのではないかと思います。私たちも沈黙の中で、自分自身の深いところを見つめ、罪という暗闇の現実に気付かされることがあるでしょうか。しかし、神はそのような闇の中にいる「ザカリヤ」、そして「私たち」をあわれんでくださいました。そして、救い主である「曙の光が、…私たちに訪れ」、その暗闇を照らし平和の道に導かれるのです(78-79節)。このような世界がイエス・キリストの誕生によって訪れたことを覚えたいのです。
私たちも沈黙させられる時があるでしょうか。しかし、神は顧みてくださいます。そして、私たちの闇をも照らしてくださいます。その素晴らしい世界を私たちも見させていただきましょう。