
聖 句「主はその母親を見て深くあわれみ、『泣かなくてもよい』と言われた。」 (ルカ7:13)
説教題 「悲しむものとともに」
聖 書 ルカの福音書7章11~17節
説教者 栗本高仁師
召天者記念礼拝を迎えて、先に天に召された方々を覚えて礼拝をささげられることを感謝します。一時的ではあったとしても家族との別れは、悲しみが伴います。イエスはそのような私たちと、どのように歩んでくださるのでしょうか。
1)大きな悲しみが
イエス様が「ナイン」という町に行かれた時のことです(11節)。「弟子たちと大勢の群衆も一緒に行った」とあるように、大きな一団であったことでしょう。イエス様一行が町に入ろうと門に近づいた時、反対に町から出て行こうとする一行に出くわします。「ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった」「その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた」とあるように、それは死者を葬りに行く一行でした(12-13節)。そこには、イエス様一行とは対照的な、ただならぬ雰囲気が漂っていたことが想像できます。なぜなら、この母親は夫に先立たれた「やもめ」であり、残された「一人息子(唯一の子!)」までも今や失ってしまったからです。
私たち自身がそのような悲しみを経験することがなかったとしても、時にそのような状況を目の当たりにすることがあるのではないでしょうか。そのような時私たちは、目を向けることができず、「かける言葉もない」というのが正直なところではないでしょうか。
2)イエスのあわれみの目
イエス様はどうされたでしょうか。イエス様は目をそらすことなく、「その母親を見て深くあわれみ『泣かなくてもよ』と言われた」のです(13節)。この「あわれむ」という言葉には、しばしば「内臓がねじれるほどにかわいそうに思う」という意味があると言われます。この母親は、胸がはりさけるような思いであったことでしょう。まさに、イエス様はその彼女の思いを受けとめて、ともに負われたということではないでしょうか。
さらに注目すべきは、彼女が何かを求めたからイエス様が近づいて来られたのではないということです。イエス様は、一方的に彼女を見て、彼女を深くあわれんでくださったのです。
イエス様は、「私」が何かを求める前から、「私」を見てあわれまずにはおられないお方なのです。そのようなお方が、私たちをとらえ、私たちとともにいてくださるとは、何という幸いでしょうか。
3)涙を拭い取ってくださるイエス
しかし、イエス様のあわれみとは、単なる同情ではありません。「泣かなくてもよい」というのは気休めの言葉ではありません。イエス様は、棺に触れてその一行の足を止めて「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14節)と言われたのです。するとどうでしょうか。何とこの息子は「起き上がって、ものを言い始めた」のです(15節)。イエス様には、死者を生き返らせる力があり、その力を表してくださったのです。こうして、この母親の涙を拭いとってくださったのです。
イエス様は、悲しんでいる私たちの涙も拭いとってくださいます。この母親の一人息子のように、この地上で生き返るということはないかもしれません。しかし、私たちには「永遠のいのち」の希望が与えられています。イエス様ご自身が、死から「よみがえられたのです」(ルカ24:5-7)。それゆえに、イエス様につながる私たちも「生かされるのです」(1コリント15:20-22)。
私たちは、どうしようもない悲しみを経験することがあるでしょう。しかし、悲しむものとともにいてくださるイエス様が、私たちをあわれんでくださいます。そして、復活という希望のゆえに、私たちの涙を拭いとってくださいます。このお方と、最後まで歩んで行こうではないでしょうか。