金 言
「二人は話し合った。『道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。』」 (ルカ24:32)
説教題 「祝福を分かち合う」
聖 書 ルカ24:25~35
説教者 井上義実牧師
今日は聖餐式も執り行う。礼拝で語られる説教は「目に見えない神の言葉」、礼拝で執り行われる聖礼典(洗礼と聖餐)は「目に見える神の言葉」と言われる。神の言葉はこの世の言葉ではない命の言葉、真理の言葉、愛の言葉である。説教と聖餐によって神様の言葉が持つ命、真理、愛に与ることができる。近くにはアメリカ大統領選挙があった。政治のみならず、科学技術、自然界の脅威 …これからの世界はどう移り変わっていくのだろうか。憂いを感じつつ祈っている。
1)分断、分裂、分散に向かう
エマオの途上の記事になる。イエス様が十字架で死なれて3日目。安息日が明けて2人の弟子がエルサレムからそう遠くないエマオの村に向かっていた。過越しの祭が終わった、季節は穏やかな美しい春の日だっただろう。
この2人の弟子は自分たちの思いに暗く沈んでいた。愛するイエス様が残酷な十字架に架けられて亡くなられた。自分たちの希望はイエス様にあった。理不尽であり、悲しみがあり、虚しい思いではなかっただろうか。彼らは自分たちの思いから抜け出せないでいた。イエス様が力ある奇跡を行われ、人を揺り動かす言葉を語られたが、死んでしまったらお終いである。エルサレムにいても仕方ない、反対者たちがいて危ない。早く逃げ出そう。そのことを実行に移していた。
イエス様の元に一つであった弟子たちが、人間の思いと考えによって、散りじりばらばらになってしまう危機にあった。実際にそのことが起こっているのがこの記事になる。今の私たちの世界もこのように分裂、分断に向かっているのではないか。
2)一致、統一、集合に向かう
そこに、見知らぬ旅人が追いつく。イエス様であるのに彼らは気づかない。何を話しているのかということから3人の会話が始まる。イエス様は共に歩まれながら、ご自分に関わる預言の言葉、旧約聖書全体のご自分に関わる証しを語られた。イエス様の御言の説き明かしは暗い彼らの心を照らし、温もりを与えていった。
夕方にエマオの村に着いた。旅人はなお先に進もうとしていた。2人の弟子はこの方を強く引き留めた。夕食の食卓で、旅人がパンを取り、神様を賛美し、裂いて分かつ姿を見てようやくイエス様だと気づいた。
イエス様による御言の説き明かしを聞くこと、イエス様に共にいてくださいと願うこと、イエス様と食事を共にすること、彼らはこれらによって心の目が開かれ、霊的な真実を知ることができる者となった。
イエス様を中心にすることによってばらばらに向かう者が一つにされる記事である。今の分断の世界に人間的な解決は無いかもしれない。しかし、イエス様が中心に立たれるのなら、そこに一致が生まれ共に集まっていくことができる。
3)この世に遣わされる
散っていこうとする者たちが一つにされるのは、イエス様が共にあり、御言が説き明かされ、パンが裂かれる食卓に着くことによってであった。それは、今日、教会の働きとして、礼拝で御言が語られ、聖餐が共にされることである。
弟子たちはイエス様だとようやく気づいて、御言によって心燃やされたこと、パンが裂かれる食卓で真理に目が開かれたことを確かめ合った。すぐに立ち上がってエルサレムへと走って戻っていった。もうエルサレムに用はない、危険を冒すつもりはないと見限っていた町へ、弟子たちの交わりの中へと戻っていった。戦いや困難が待ち受けているが、そこに自分たちの使命があるという確信をいただいた。分断ではなく一致、分裂ではなく統一、分散ではなく集合に導かれた。イエス様によって正しい道へと引き戻されていった。
私たちは自分の考えや思いに引き込まれて神様から離れてしまうことがある。イエス様は離れていく私たちに近づいてくださり、共に歩み、語りかけ、魂にも身体にも力を与えてくださる。私たちの立つべき使命の場へと遣わしてくださる。教会の礼拝にあって、御言と聖餐の分かち合いを私たちは続けていく、イエス様の御心を確かめながら天に向かう旅路である。