聖 句「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」 (ルカ2:11)

説教題 「すべては神の手の中で」
聖 書 ルカの福音書2章1~7節
説教者 栗本高仁師

 今年も待降節を迎えました。混沌とした時代のただ中にあって、いったい誰が、何が、この世界を動かしているのかがわからない思いがします。しかし、イエス様がお生まれになった時、世界を動かしているのは「ローマ皇帝」だと答えるものがほとんどでした。

1)ローマ皇帝の支配の中で

 ローマ帝国の初代皇帝が1節に出てくる「アウグストゥス」です。彼の治世から「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」が始まったと言われています。勢力拡大と帝国安定化に貢献した彼は、自らが世界の王であることを示し、自らに忠誠を誓わせるために、「全世界の住民登録」を行いました(1節)。
 ローマにとっては安定した時代であったかもしれませんが、イスラエルの民にとってはそうではありません。むしろ、奴隷状態に等しかったと言えるでしょう。この歴史的な記述を見るときに、「エジプトから解放した神よ、あなたの御手はどこにあるのか」という声が聞こえてくるのではないでしょうか。しかも、そのような状況は数百年続いていたのです。
 私たちもそれぞれ遣わされたところで、神の手が見えないと感じることがあります。どうしようもない現状に嘆く時があります。しかし、果たして、そこには神はおられないのでしょうか。

2)本当に歴史を治めている方

 イエス様の誕生を見るときに、この状況下で神様は手を動かしてくださり、救い主を生まれさせたことを知ります。
 人々は住民登録のため、自らの故郷に帰っていきます(3節)。そして、ヨセフも自らの故郷である、ダビデの町と呼ばれるベツレヘムへ、マリアとともに上っていきます(4節)。ヨセフはダビデの家系であったからです。そして、そこで身重になっていた「マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ」のです(7節)。この方こそが、イスラエルの民が待ち望んでいた「メシア(=キリスト)」です。こうして、聖書が預言していたすべてのピースがうまります。彼らはずっと「キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると聖書は言っているではないか」と信じていました(ヨハネ7:42)。まさに、この預言がここで成就するのです。だからこそ、天使は「今日ダビデの町で…救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と告げたのです(11節)。
 アウグストゥスは自らが世界を治め、全ては私の手の中にあると考えていました。しかし、神はその上を行かれるお方です。アウグストゥスが住民登録を命じたゆえに、キリストはベツレヘムで生まれたのです。神は、彼の思惑さえも用いて、救い主誕生のご計画を実行してくださったのです。本当に歴史を治めておられる方はどなたでしょうか。この聖書を通してご自身を現してくださっている神なのではないでしょうか。

    3)飼葉桶で生まれたキリスト

     このようにしてルカは、当時「アウグストゥス」に与えられていた「救い主」「主」という名をあえて用いることによって(11節)、世界の王は今お生まれになった「イエス」であることを明らかにします。
     しかし、そのような世界の王が寝かされたところは、「飼葉桶」でありました。「彼らのいる場所がなかったから」とあります(7節)。待ち望んでいた救い主が生まれる場所にしては、あまりにもみすぼらしいところではないでしょうか。それは一体なぜなのでしょうか。
     実はここにも、神のご計画があらわされています。どういうことでしょうか。それは、イエスがあらゆるものの救い主となるためです。そのために、イエス様は低き姿でお生まれくださったのです。しかし、この飼葉桶は序章に過ぎません。イエスは「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで」くだられたのです。最も低くなられたイエス様だけが、すべてのものを救い出すことができるのです。

     私たちの中に、神の手が見えなくなっている方がおられるでしょうか。しかし、イエス様はそのように思えるところで、お生まれくださいました。どのような状況においても、全てを治めている神に目を向けさせていただこうではないでしょうか。