聖 句「私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」 (ルカ2:30-32)

説教題 「すべてを照らす光として」
聖 書 ルカの福音書2章25~35節
説教者 栗本高仁師

 何でもない器が、一つの光によって、素晴らしいイルミネーションに生まれ変わることがあります。イエス様が光としてきてくださったという事実は、まさにそのような出来事です。

1)すべての民を照らす光

 イエス様がお生まれになって「八日が満ち」た時、割礼が施され、名がつけられました。さらに、「きよめの期間が満ちたとき」、ヨセフとマリアは幼子をささげるために神殿に来ました(22-23節)。そのような中で、シメオンという人がイエス様を迎えました。彼は、聖霊によって「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない」と告げられていました(26節)。そして、彼が聖霊に導かれて神殿に来ていたまさにその時、両親もイエスを連れて入って来たのです(27節)。
 この時、ヨセフとマリアも驚くことを(33節)、シメオンは口にします(29-32節)。何と、この幼子イエスは、イスラエルの民だけではなく、すべての民のために備えられた救い主であり、異邦人を照らす光である、と歌われるのです(31節)。羊飼いたちに告げられたのは「民全体」に対する「大きな喜び」でした(2:10)。しかし、イエスの誕生は、すべての民のための大きな喜びであると告げられたのです。
 これは私たち異邦人にとって、どれほどの慰めでしょうか。私たちの救いは「ついで」でも、「想定外」でもありません。イエス様の誕生から備えられていたのです。

2)光り輝く存在となる

 興味深いことに、これがシメオンの待ち望んでいた「イスラエルの慰め」でした(25節)。彼は、神様の救いのご計画の全体像を理解していました。神様がイスラエルの民を選んだのは、彼らが「国々の光とし」て、神様の「救いをもたらす者」となるためでした(イザヤ49:6)。シメオンは、正しい、敬虔な人でした。ところが、この時のイスラエルは、不義を行い、不敬虔な歩みをしていたのでした。イスラエルは国々を輝かせる光を失っていると嘆いていたのではないでしょうか。
 しかし、「異邦人を照らす啓示の光」であるイエスを見て、この方こそがイスラエルの慰めだとわかったのです。イスラエルの本来の使命が回復したゆえに、イエスこそが「イスラエルの栄光」である、と最後に歌うのです(32節)。
 イエス様は、私たち一人ひとりをも人々を輝かせる光としてくださいます。これこそ、私たちにとって究極な喜びではないでしょうか。

3)私たちの心を照らす光

 しかし、シメオンは、さらに驚くべきことを語ります。彼は両親を祝福しつつも、まるで祝福とは正反対のことをマリアに語ります(34節)。それは、光であるイエス様ご自身に、多くの人がつまずいてしまい、イエス様に反対する、ということです。それは、母マリアの心を刺し貫くようなことでした。しかし、ここで大切なことは、そのことによって「多くの人の心のうちの思いが、あらわになる」ということです。
 実はこれこそが、イスラエル、そして私たちが「他の人々を輝かせる光」となるために通らなければならない道です。まず、私たち自身の陰りがなくならなければ、誰かを輝くせることなどできないためです。しかし、それは容易なことではありません。私たちのすべてが明るみになることは恐ろしく、光を拒んでしまうためです(ヨハネ3:20)。それが、人々がイエス様につまずき、反対してしまう原因です。
 このように、私たちが光となっていく過程において、痛みが伴い、倒れてしまうことがあるでしょう。しかし、イエス様は私たちを起き上がらせてもくださいます。

 イエス様は、すべての民を照らす光として、私たちの心のすべてを照らし、私たちを「光り輝く存在」にしてくださいます。ここに真の慰めと喜びがあることを信じて、一歩ずつ歩ませていただきましょう。