聖 句「しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。
…母はこれらのことをみな、心に留めておいた」(ルカ2:50-51)

説教題 「今はわからなくとも」
聖 書 ルカの福音書2章41~51節
説教者 栗本高仁師

 2024年も最後の礼拝を迎えました。この一年を振り返る中で、神の導きであると理解できることもあったでしょうか。その一方で、この出来事にどのような意味があったのかと思うこともあったのではないでしょうか。実は、それはイエスの両親が経験したことでもありました。

1)理解できなかった両親

 イエス様が12歳になられた時のことです。例年通り、イエスの両親は過越の祭りためにエルサレムへと行きました(41-42節)。イスラエルでは13歳で成人を迎えるため、この時はイエス様にとっては備えの時でもあったでしょう。祭りが終わり、帰路についた時に事件が起こります。1日ほどの道のりを進んだところで、両親はイエス様がいないことに気づくのです(44節)。過越の祭りには、親戚や知人たちとともに「一行」で行っていたため、その中にいるだろうと両親は思い込んでいたのです。彼らは捜し回りましたが見つからなかったので、来た道を引き返し、ついにエルサレムまで戻ってきてしまいました。
 そして、ようやくエルサレムの神殿でイエス様を見つけます。何と、教師たちの真ん中に座って、教えを聞いたり質問したりしていたのです(46節)。両親は唖然とし、マリアはイエス様を叱ります(48節)。しかし、イエス様はそれに対して「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか」(49節)と言います。このことばこそが、両親が理解できなかったことでした(50節)。父ヨセフを前にして、神殿こそが「わたしの父の家」であるというのですから、両親が理解できなかったのも無理はないでしょう。

2)よく考える理解できるかもしれないが…

 しかし、イエスというお方がどのようなお方であるかを知っているならば話は別です。ここまでイエス様の誕生物語を見てきました。その中で、このイエス様は、普通の子ではなく、聖霊によってマリアのうちに宿った「神の子」であり(1:35)、「救い主、主キリスト」であるということが語られてきました(2:11)。よく考えると、両親は直接御使いからそのことを聞いていました。また、周囲の人々(ザカリアやエリサベツ、羊飼い、シメオンやアンナ)を通しても聞いていました。
 それゆえに、神が臨在する「神殿」こそが、「わたしの父の家である」と言われた意味も、よく考えるならば理解できたかもしれません。ところが、神の子であるイエス様の誕生と、少年イエス様のことばを、合わせて考えることができなかったのです。
 ここに私たち人間の限界があります。確かに、振り返ってよく考えて見れば理解できることがあるかもしれません。しかし、その出来事が起こった時にはわからないことがほとんどなのです。

    3) 後になってわかるという希望

     この後、イエス様は両親と一緒に帰り、ナザレで両親に仕えられました(51節)。この時の過ぎ越しの祭りでの出来事は、両親にはとても理解できることではありませんでした。しかし、マリアはわからないなりに、「これらのことをみな、心に留めておいた」のです(51節)。それゆえに、この後イエス様の救いの御業が完了した時に、このことの意味を理解できたのではないでしょうか。
     私たちも、自分の中では理解できないことが起こったり、言われたりすることがあるでしょう。しかし、私たちも覚えたいことは「今はわからなくとも」、後になって理解できる時がやってくるということです。神様は、決して意味のないことはなさいません。私たちに理解できない事柄の中にも、実は神のご計画がある、という希望を私たちは持つことができるのです。
     この希望があるがゆえに、私たちはこの一年になされた「すべてのことにおいて感謝」できるのではないでしょうか(1テサロニケ5:18)。だからこそ、私たちもマリアのように、あらゆることを「心に留め」させていただこうではないでしょうか。