聖 句「それなら悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(ルカ3:8)
説教題 「私たちの聞くべき声」
聖 書 ルカの福音書3章1~14節
説教者 栗本高仁師
私たちの周囲からは様々な声が聞こえてきます。その中で聞き分けていかなければなりませんが、私たちの聞くべき声とは何でしょうか。
1)本当に無関係ですか?
バプテスマのヨハネ、イエス様が誕生し、それぞれ「幼子は成長し」(1:80, 2:40)、神の使命を果たすときとなりました。バプテスマのヨハネに与えられた使命は、救い主の「道備え」をすることでした(1:17, 76)。それは、古から預言されていたことだったのです(4-6節)。
彼はどのようにして、その道を備えたのでしょうか。彼が行ったことは「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝え」ることでした(3節)。彼は「荒野で叫ぶ者の声」として、「悔い改めのバプテスマを受けなさい」と民に叫び続けたのです。しかし、このバプテスマはユダヤ人ではなく、異邦人が受けるべきものとして考えられていました(ユダヤ教に改宗するときの方向転換のしるしとして)。彼らは、自分たちは受ける必要がないと考えていたのです。
私たちも自分たちとは無関係だ、自分たちは聞く必要がないと思っている声があるかもしれません。しかし、「私たちの聞くべき声」が、実はそのようなところにある可能性はないでしょうか。もう一度私たちは注意深く声を聞かせていただきたいのです。
2)私たちの現実を問いかける声
彼らはなぜ「悔い改めのバプテスマ」を受けなければならなかったのでしょうか。それはヨハネのことばに表されています。彼らは「われわれの父はアブラハムだ」と言っていたとあります(8節)。つまり、彼らは「自分たちはアブラハムの子孫であり、選ばれし民であるから、救われている。だから悔い改める必要はない」と考えていたのです。確かに、民族的に見るならば彼らは神の民でした。しかし、イエス様が「木の良し悪しはその実によって分かります」(マタイ12:33)と言われたように、大切なのは「外見」ではなく「内実」です。イスラエルの民は体裁ばかりに目を留め、神の御心を行っていなかったのです。そこに、彼らの問題がありました。それゆえに、ヨハネは彼らに対して「まむしの子孫たち」と痛烈な批判を込めて、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と語るのです(8節)。そして、そうでなければ「良い実を結ばない木はすべて切り倒され、火に投げ込まれます」と警告するのです(9節)。
このように、ヨハネは、まず民の現実を問いかけます。これが、救い主の道備えの一歩目でした。ここに私たちが新しい一年の初めに聞くべき声があるのではないでしょうか。私たちの信仰の現実・内実はどのような状態でしょうか。
3)飢え渇きへと導く声
このヨハネの語りを聞き、バプテスマを受けようと「群衆」「取税人たち」「兵士たち」がやって来ました(7,12,14節)。そして、彼らは口を揃えて言います。「私たちはどうすればよいのでしょうか」と(10, 12,14節)。ヨハネは、それぞれに対して、置かれた場所で神の御心を行うようにと答えます(11,13,14節)。この後、彼らが実際に応答したかは書かれていません。しかし、「私たちはどうすればよいのでしょうか」ということば自体に、彼らの方向転換はすでに見られます。自分たちの現実を深く受けとめたゆえに、彼らの内側で「このままではいけない」という「霊的な飢え渇き」が生まれたです。この渇きこそが、実は悔い改めの上で、最も大切なことです。このようにヨハネは、彼らの現実を問いかけることで、神に対する飢え渇きを与え、主の道を整えたのです。
私たちが問われるのは、「霊的飢え渇き」が起こるほどに、本当に自分の現実を深く受けとめているだろうかということです。興味深いことに、ここに民の指導者たち(祭司や律法学者・パリサイ人)の姿はありません。彼らはヨハネを通して語られた声を耳にはしましたが、聞いて受けいれることはなかったのです(ルカ7:30)。そのため、飢え乾くこともなかったのです。私たちは、自分の現実を問いかける声を聞き、どのように受けとめるでしょうか。