
聖 句「「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(ルカ3:22)
説教題 「神の子としての承認」
聖 書 ルカの福音書3章15~38節
説教者 栗本高仁師
誰かが、何か特別な職務に就くときには、それに相応しい宣告があるものです。まさに、イエス様がキリストとしての働きを始めるときも同様でした。
1)最後の道備えをするヨハネ
バプテスマのヨハネは「主の道を用意する」者でした(3:4)。しかし、キリストの到来を待ち望んでいたため、人々は力強い彼のことばを聞き「もしかするとこの方がキリストではないか」と思うようになりました(15節)。そのことが分かったヨハネはすかさず、「私よりも力のある方が来られます」と言って、自らはキリストではないことをはっきりと伝えます(16節)。それでは、どのようにして見分けることができるのでしょうか。それは、「何で」バプテスマを授けるかによってわかると、彼は言います。ヨハネは「水で」授けましたが、キリストは「聖霊と火で」授けるというのです。つまり、この方は圧倒的な力をもってして、私たちの方向転換を完成してくださるのです。
このように、ヨハネは約束されたキリスト(メシア)がもうすぐ来るという「福音を伝え」ました(18節)。興味深いことに、時系列的にはもう少し後である「ヘロデによるヨハネの投獄の出来事」が意図的にここで記されます(19-20節)。そのことによって、ルカはヨハネの役目の終了を告げ、私たちをイエス・キリストの物語へと導くのです。
2)イエスこそが、神の子キリスト
それでは、ナザレのイエスこそが、キリストであるということは、一体どのようにして明らかになったのでしょうか。
実は、ヨハネがバプテスマを授けながら「私よりも力のある方が来られます」と言っているそばから、もうイエス様は近づいておられました。そして、民と同じようにイエス様はバプテスマを受け、祈っておられたときのことです(21節)。特別なことが起こります。何と、天が開け、聖霊が降り、天から声がしたのです(21-22節)。それはイエス様の父である、天の神からの声でした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」という声がしたのです。もちろんイエス様は、この後の系図に表されるように(23-38節)「神の子」であります。しかし、直接的にはこのことばは、神が真の「世界の王」を立てるときに、その王に呼びかける声でした(詩篇2:7)。つまり、神はご自身の子であるイエスこそが「油注がれた者=キリスト」であると、ご自身で承認されたのです。
もう一度私たちは、イエスこそが神の承認を受けた正真正銘の「救い主キリスト」であるということを覚えたいのです。
3)私たちも神の子としての承認を受ける!?
しかし、イエスはこの世の権威者のようには振る舞われませんでした。イエス様は、民衆の中に溶け込み、彼らと同じようにバプテスマを受けられたのです。よく考えるとそれは驚くべきことではないでしょうか。イエス様は罪なき神の子であり、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」を受ける必要は全くなかったからです。しかし、イエス様はあえて、民と同じように、私たち人と同じように、バプテスマを受けてくださったのです。それはなぜでしょうか。それは、私たちの代表となるためであったのです。神の身分を捨て、私たちと同じ土俵に立ち、私たちと同じ道を歩んでくださったのです。
バプテスマとは、「私たちの古い人」が死に、「新しいいのち」に生きることを意味します(ローマ6:3-6)。もちろん、イエス様はそのような死ぬべき「古い人」を持ち合わせてはいません。イエス様は、私たちの古い人を引き受けて、私たちの代表として死んでくださったのです。まさに、それが十字架の出来事です。しかし、三日目によみがえられたのです。この時のバプテスマは、そのことを指し示す予表だったのです。このように、イエス・キリストが私たちの代表となり、十字架と復活の道を先に通ってくださいました。それゆえに、私たちも神の子としての承認を受けることができるのです。そのしるしが「聖霊」であります(エペソ1:13-14)。その大いなる恵みを深く覚え、このイエス様につながり続けるものとさせていただきましょう。