
金 言
「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」 (Ⅰペテロ2:9)
説教題 「私たちの土台」
聖 書 ペテロ第一2:1~9
説教者 井上義実牧師
新しい年を迎えて如何お過ごしだろうか。この年の祝福をお祈りしている。世界の情勢、国内の状況、私たちの周囲も不安定さを感じる。小林一茶が詠んだ「目出度さもちう位也おらが春」のような心境。神様にある希望、神様の御業に期待しつつ、状況は良くなくとも、力が弱くとも、喜んで進み行こう。今日は2025年度の教団聖句から語る。否定的なことばかり言いたくないが教団が厳しい状況にあることを常々語ってきた。そこからどう歩み出ていくのか。私たちの基盤となるものは、受け継いできた信仰以外にないことを覚える。今朝は私たちがいただいてきた信仰を見ていこう。
1)アジアの教会の様子
使徒ペテロが小アジアの教会に宛ててこの手紙を記す(1:1)。紀元後60年頃になる。生まれて間もない初代教会はローマ皇帝ネロの迫害の中にあった。キリスト者はまだまだごく少数であった。ローマ帝国はこれから全盛期を迎えていく上り坂にあった。キリスト教には異文化との戦い、異教の中での葛藤、多くの戦いがあった。困難は多くあったが、キリスト教の信仰は野火のように広がっていった。この手紙の地域はエルサレムから1千kmほど離れている。既にキリスト教は広がりを持っていった。
現代日本では信教の自由が保証され、文化も経済も高度な社会にある。しかし、キリスト者は少数者であり、私たちはペテロの時代の小アジアのキリスト者に近いのではないか。この手紙はイエス様への信仰に固く立ち、異なる価値観を持つ世界でいかにキリスト者として生きるのかを記している。
2)よって立つ土台
異文化、異教の中で少数者として信仰を保つ。信仰を伝えていく。私たちが信仰に生きていることによってなされていく。神様の恵みによってである。9節
・選ばれた種族 かつてはイスラㇽ民族、今私たちはイエス様によって霊的なイスラエル
・王である祭司 かつては選ばれた者たち、私たちは一人一人が祭司として執り成す者
・聖なる国民 かつてのイスラエル民族、現在の霊的なイスラエル
・神のものとされた民 かつてのイスラエル民族、現在の霊的なイスラエル
これらは旧約聖書の時代ではユダヤ人にしか与えられなかった。イエス様の十字架を通してなされた救いによって、国籍、民族、言葉、文化も全て越えて神の民とされている。この信仰に立ち続けていく。
3)現状の戦いの中に向かう
信仰はどこから生まれたのかというと、へブル12:11にある「信仰の創始者であり完成者であるイエス」。イエス様ご自身が私たちの信仰の始まりであり、完成へと導かれている。信仰の基礎をこの箇所では、「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。」と言う。イエス様が神様に選ばれた、尊い生ける石、要石である。私たちも信仰によって生きた石とされて霊の家、神様の家、教会を建て上げていく。この当時のイスラエルの家の素材は、普通は石であった。ここでイエス様は土台、基礎となる石であり、私たちはその上に組み合わされ建てられて、家の外側を形作っていく。
イエス様が土台であるということはマタイ7章の最後、砂の上に建てた家、岩の上に建てた家の話につながる。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いても倒れない家のことである。私たちはそのような確固たる信仰をイエス様の上に持っている。この世の風、悪魔の揺さぶりがあったとしても立ち続けることができる。
キリスト教を滅ぼそうとしたローマ帝国であったが、滅びたのはどちらか。滅びたのはローマ帝国であった。キリスト教は異教、異文化を越えて、世界最大の宗教となり、今も福音は地の果てへと広げられている。力をいただき、希望をいただき、新しい年も進み行こう。
羽仁もと子「希望」
「希望」というこのキリスト教的な徳を、今日世界は大いに必要としている。それは、世界が「忍耐」の徳を大いに必要としているのと同様である。「忍耐」は、「希望」と密接につながりながら歩む徳である。忍耐ある人は、善を紡ぎ出す人である。平和を粘り強く望み、たとえ他の人々が性急にすべてを要求しても、忍耐は待つことを知っている。自分の周りで多くの人が失望に陥っても、希望に励まされた忍耐強い人は、最も暗い夜の闇も渡り切ることができる。
「希望」は、若い心を持った人の徳である。そこには年齢は関係ない。お年寄りであっても輝いた眼差しで、未来に向けてつねに張りをもって生きる人がいる。福音書の中の偉大な二人の老人、シメオンとアンナを思い出そう。彼らは疲れることなく待ち続け、両親に連れられ神殿を訪れたイエスの中にメシアを認めることで、この世の歩みの終りに祝福を受けることになった。
わたしたち皆にとっても、彼らのようであるならば、何という恵みだろうか。長いさすらいの後で、荷袋と杖を置いて、経験したことのない喜びに心満たされ、わたしたちもこのように叫ぶことができるならば。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」(ルカ2,29-32)。
この「希望」という偉大な徳と、それに伴うべき「忍耐」の徳を主に求め、願いながら、この年もイエス様を土台として、異教の文化、異教の価値観の中も進んで行こう。