
聖 句「そして彼女に、『あなたの罪は赦されています』と言われた。」
(ルカ7:47)
説教題 「罪の赦しを与える方ー救いの基礎⑤」
聖 書 ルカの福音書7章36~50節
説教者 栗本高仁師
神様は良い世界を造り、人にその世界の管理を任せました。しかし、人は自己中心という「罪」ゆえに神様から離れ、世界は壊れていきます。しかし、神様はその世界の回復をさせるために、イスラエルという民を選びます。そして、その子孫であり約束された救い主イエス・キリストを通して、世界の回復が実現していきます。
1)罪という重荷を負う私たち
私たちは現実の中で様々な「重荷」を背負って生きています。本来良いものであったとしても、壊れた世界の中では、それが私たちを苦しめる重荷となります。それゆえに、イエスは人が負うそれらの重荷を下ろすことによって、この世界の回復を果たそうとされます。様々な重荷がありますが、やはり最大の重荷は「罪」です。イエス様はこの重荷をどのように取り扱ってくださるのでしょうか。
今日の物語は、まさに「罪」という重荷を負った一人の女性が登場します。彼女は、イエスがあるパリサイ人の家で食事をしていることがわかっため、イエスのもとにやって来ます(36-37節)。彼女は大胆にも、イエスの足もとに近寄り、涙で足をぬらし、髪でぬぐい、足に口づけをし香油を塗ります(38節)。それは良い行為でしたが、このパリサイ人は「この女は罪深い」と心の中でつぶやきます(39節)。この時の周囲の視線・雰囲気で、彼女は「お前は罪深いのだ」という声を聞き取っていました。それはこの時だけでなかったでしょう。私たちも、彼女と同じように罪という重荷を背負っている現実があるのではないでしょうか。
2)罪の赦しを宣言されるイエス様
一方で、イエスは彼女をどう見たでしょうか。シモンの心の声を知っていたイエスは一つのたとえを話します。それはある金貸しが、500デナリと50デナリを貸していた二人の人の借金を帳消しにしたとき、どちらがより多く金貸しを愛するか、という話です(41-42節)。当然、より多くを帳消しにしてもらった方であり、シモンもそのように答えます(43節)。
すると、イエスはシモンに「この人を見ましたか」と言って、イエスを出迎えた時の、彼と彼女の行動を対比します。つまり、シモンは何もするべきもてなしをしませんでしたが、彼女は多くの愛でもてなしてくれたと言うのです(44-46節)。この多くの愛によって、彼女の多くの罪は赦されていることは明白でした(47節)。それゆえに、イエスは彼女に直接「あなたの罪は赦されている」と宣言するのです(48節)。
私たち一人ひとりも、このイエス様と出会うとき「罪の赦し」の宣言を受け取ることができます。イエス様は私たちの重荷を下ろしてくださるお方なのです。
3)信仰によって赦される恵み
しかし、彼女の罪は一体どのようにして赦されたのでしょうか。それは彼女がイエスを多く愛したからではありません。なぜなら、先のたとえで借金が帳消しにされたのは、彼らが金貸しを愛したからではないからです。愛は、赦しの結果なのです。
そして、イエスは彼女に「あなたの信仰があなたを救った」(50節)と言われます。どこに彼女の信仰があるというのでしょうか。実はそれは始めから表されていました。彼女が多くの者たちの非難の目を承知の上で、イエスのもとに来た、というところにです。彼女は、イエスが「罪人の仲間」であるという知らせ(7:34)を信じたのです。そして、イエスはその信仰を見ていてくださったのです。
しかし、何の資格があってイエスは罪の赦しを宣言できるのでしょうか。もちろん、誰でも言えばいいというものではありません。しかし、イエスはその資格を唯一お持ちの方です。なぜなら、イエスがすべての人のあらゆる罪という重荷を背負い、十字架で身代わりの死を遂げられたからです。
それゆえに、私たちもこのイエス様のもとで、安心して罪という重荷をおろすことができるのです。そして、その「あなた」を通して、世界は回復していきます。どうぞ、このイエス様の十字架を信じて、救いを受け取ろうではないでしょうか。