
聖 句「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」 (ヘブル2:18)
説教題 「誘惑に打ち勝つイエス」
聖 書 ルカの福音書4章1~13節
説教者 栗本高仁師
信仰生活にとって、間違いなくつきまとうのは誘惑との戦いではないでしょうか。
1)御霊に導かれて、悪魔の試みへ?
イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたとき、天から聖霊が降り「神の子」としての承認を受けました(22節)。イエス様こそが、間違いなく神に選ばれた救い主メシアであることが明らかにされたのです。いよいよ、イエス様の「神の子、メシア」としての働きが始まるかと思いきや、この直後にイエス様は、荒野で悪魔の試みを受けられます(1-2節)。
ここでの「試み」は明確に「悪魔」からのものでした。それゆえに、別の訳では「誘惑」とされています。つまり、悪魔は悪意を持って、イエス様の神の子としての働きを妨害しようとしたということです。しかし、このところを見ると、イエス様は「聖霊に満ちて」、「御霊によって荒野に導かれた」とあります。ここで、私たちは不思議に思うのです。なぜなら、まるで神様が悪魔の誘惑へと導いておられるように見えるからです。御言葉にあるように「神は…ご自分でだれかを誘惑すること」はありません(ヤコブ1:13)。しかし、神が悪魔の誘惑を許されることはあります。そこには、どのような神の意図があるのでしょうか。
2)神から引き離そうとする
ここには、悪魔からの3つの誘惑が記されています。一つ目は「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい」(3節)、二つ目は「(もしあなたが私の前にひれ伏すなら)、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう」(6-7節)、三つ目は「あなたが神の子なら、ここから(=神殿の屋根)下に身を投げなさい」(9-11節)、というものでした。イエス様にとって、これはどのような誘惑となったのでしょうか。それは「神の子なら」ということばに表されています。イエス様は「神の子」として、人々を救うために来ました。確かに、①石をパンに変えれば、一気に飢えている人々を救うことが、②悪魔にひれ伏して世界の国々の権力と栄光を手に入れれば、一気に正しい世界にすることが、③神殿から飛び降りて御使いに助けられれば、一気に信じる人々が起こされるかもしれません。
ところが、ここに悪魔の策略があるのです。一見、目的を果たせるように見えますが、最も大切なものを失わせるのです。それは、神様への「信頼」です。悪魔は、イエス様を神様から引き離そうとされるのです。それは紛れもなく、人間が、イスラエルが通ってきた歴史でもあります。アダムとエバは、蛇の誘惑によって神から離れました。そして、出エジプトをした民は、荒野の誘惑(飢えと偶像崇拝と神への試み)によって神に反逆し続けました。私たち一人ひとりも、日常生活の中で「神なしでも大丈夫。いや神なしの方がうまくいく。神がいるのか試してみよ」という試みを受けることがあるのではないでしょうか。
3)勝利されたイエスとともに
その試みに対して、イエス様はどうされたでしょうか。イエス様は、いずれも神のことばを持って、悪魔の試みに立ち向かわれました。しかも、単に聖書の御言葉を引用しただけはありません。いずれも申命記からイエス様は答えたのです(4節=申8:3, 8節=申6:13, 12節=申6:16)。申命記は、荒野の旅路を通った民に対して、もう一度神の教えを語り直しているものです。イエス様は、彼らと同じように荒野の誘惑を経験しておられることを理解していました。しかし、イエス様は、民とは対照的に、神様への信頼を貫かれたのです。こうして、彼らの失敗を乗り越えてくださったのです。ここに神の意図があるのです。
私たちは誘惑に負けることがあります。そして、神から離れてしまいそうになります。神なしで生きようとしてしまいます。しかし、私たちには、勝利してくださったイエス様がともにおられます。そのイエス様が私たちを助けてくださいます。私たちと同じように試みられたからこそ、私たちを助けることができるのです(ヘブル2:18)。私たちは、このイエス様から目を離さないで、御言葉の武具を持って、神様に信頼し続けようではないでしょうか。