聖 句「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた」(ルカ4:18)

説教題 「恵みの年の実現」
聖 書 ルカの福音書4章16~30節
説教者 栗本高仁師

 何事においても、はじめに方向づけをするということは大切になってきます。イエス様も宣教のはじめに、メシアとしての働きとは一体何のかということを語られました。

1)イエスのメシアとしての働きとは?

 イエスはいつものように安息日に会堂に入り、礼拝の中で聖書を朗読します。その時に読まれたのが、イザヤ61章1-2節でした(18-19節)。イエス様は無意味にそこを読んだのではありません。はっきりとその箇所に「目を留められ」ました(17節)。なぜなら、イエスはご自身が何者であり、何をするために、この世に遣わされたかを理解していたからです。
 直前でバプテスマを受けられた時、イエスの上に聖霊が降り、「神の子=真の王」としての承認を受けました(3:21-22)。かつて王が任命される時に油が注がれましたが、まさにイエスは「油注がれた者(=メシア)」であることを理解しつつ、このイザヤ書から自らの使命を見ます(18節)。それが「貧しい人に良い知らせを伝える」ということです。その良い知らせとは「捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし」とあるように、様々な束縛からの解放です。
 その解放者としてイエスは来られたゆえに、「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました」と言われるのです(21節)。イエス様はすでに2000年前に、私たちの解放者として来てくださったのです。

2)拒絶反応!?

 このイエスのことばを聞き、ナザレの人々はどう反応したでしょうか。彼らは一見、肯定的に受けとめているかのように思えます(22節)。しかし、イエスは彼らの心のうちにある本質をご存知でした。それゆえに「きっとあなたがたは『医者よ、自分を治せ』いうことわざを引いて『カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』と言うでしょう」(23節)と言います。この諺は「他の人にした良いことを、身内でもしなければならない」という意味です。つまり、彼らは「イエスは私たちの身内だから、カペナウムではなく、ナザレでもっと良いことをしなければならない」と考えたのです。彼らのうちには、「内と外」で境界線を引くという、彼らの本質的な問題が潜んでいたのです。
 イエスは2つの旧約聖書の物語を語ることによって、この問題の危うさを明らかにします。「シドンの一人のやもめの女」と「シリア人ナアマン」の話です(25−27節)。エリヤとエリシャの時代、イスラエルには多くのやもめ、ツァラアトに冒された人がいましたが、異邦人である彼らだけが助けられたのです。イエスの論点は、もしあなたがたが利己主義を貫くならば、同じようにされるということです。しかし、彼らは憤りに満たされ、イエスを殺そうとしてしまいます(29節)。

3)すべての人々を招いてくださる!

 イエスが語られた「貧しい人への良き知らせ(福音)」「解放」とは何なのかが見えてきます。
 「貧しい人」というのは、今のような経済的な事柄に関することだけではなく、「性別、家系、社会的立場、宗教的きよさ」といった事柄によって、グループの中に入ることができなかったすべての人々のことです。イエスはこのような拘束力から解放してくださるのです。それゆえに「主の恵みの年の実現」と言えるでしょう。
 それは「ヨベルの年」と呼ばれ、50年ごとに訪れるイスラエルの全国民の解放の年のことです。この時すべての借財(土地も人も)が帳消しにされます。こうして、イエスはあらゆる境界線を取り払い、あらゆる人々を、神の恩恵を受ける者として招かれたのです。これが「福音」です。

 私たちは「福音」をどのように理解しているだろうかと問われます。ナザレの人々のように自分たちの願う「福音」となっていないでしょうか。もしそうであるならば、もう一度イエス様の語られた「福音」を聞き直し、私たちもこの喜びの知らせを分かち合うものとさせていただこうではないでしょうか。